深南部 (タイ)
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深南部(しんなんぶ)とは、タイ・南部のパッターニー県を中心とするマレーシアとの国境付近を言う地域で、住民はマレー系が多く、現在でもタイからの独立を目指す動きが大きい。具体的には、主にパッターニー県、ヤラー県、ナラーティワート県の三つの県(深南部三県)にある程度のマレー系住民の住むソンクラー県を加えてこう呼ぶ。
同じくマレー系住民の多いサトゥーン県については、歴史的にタイと親密な関係を保ったクダ王国の支配する地域であったため、後述するがパタニ王国復興を掲げた運動には関わらないことが多く、テロ活動の文脈では含まれないことが多い。
注:以下の文では中立的な観点からマレー語的表記である“パタニ”を王国時代の表記あるいはマレー人的観点からの用語に対して遣い、タイ語的表記である“パッターニー”をタイ編入後の地名表記に遣いました。
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[編集] 初期の歴史
パタニ王国も参照のこと
現在のタイ南部にはランカスカ王国が存在した。この王朝は現在のマレーシア・クダ州、クランタン州、トレンガヌ州およびタイ国のパッターニー県(パタニ)、ヤラー県(ジョロール)、ソンクラー県(シンゴラ)、サトゥーン県(ストゥール)を領有していた。この王朝は初期にはヒンドゥー教を国教としていたが、イスラーム化が進行しマレー半島で最初のイスラーム化を示すトレンガヌ碑文が13世紀に現れ、後の15世紀中期にイスラーム化した。
パタニ王国は、ヨーロッパや中国・日本との貿易により、17世紀にはマレー半島の貿易の中心として黄金期を迎えたが、王国は常にスコータイ王国、アユタヤ王国の服属下にあったため、独立を求めて度々争った記録がある。
パタニ王国は、パタニ王国内部の政争に加え、18世紀後半にはソンクラーに親タイ的な華人の政権が誕生しパタニに代わる交易拠点として発達を遂げ、その貿易拠点としての価値が減じた。その後マレー半島を狙っていたタイに進出の機会を与えてしまう。
[編集] タイ併合
タイがビルマに滅び、タークシン王朝をもって復興し、ラーマ1世がチャックリー王朝を建てる18世紀には、パタニ王国は非常に衰退していた。パタニはアユタヤ王国の後継者を自称する新生タイへの服属を拒否したため、タイ軍がパタニに遠征し、この時ラーマ1世の子であるスラシー親王はスルタン・ムハンマドを殺しパタニを完全に支配下に置いた、この時の記録によると4,000人にも及ぶパタニ人がバンコクに連れてこられ、運河を掘る労役をさせられたと言う(現在彼らは宗教面以外で同化し、タイ人を自称)。
その後1791年から1808年パタニはタイ政府に対し抵抗を試みているが、タイはパタニを分割統治することでその力をそぎ,抵抗を押さえ込んだ。パタニは1837年にもモハマッド・サードの大乱を起こして、タイ政府を悩ませた。1882年にはパタニは正式にタイへ編入しタイ人知事がタイ中央から派遣されるようになった。1902年年にパタニ国のスルタン制は廃止され、続く1909年にタイ政府が大英帝国との間に結んだバンコク条約によりパタニ領のタイ領化が国際的に承認され、旧パタニ王国はモントン(州)を形成した。その後1933年のモントン解体により、現在の深南部三県が成立した。
[編集] パタニ国
第二次世界大戦(太平洋戦争)時には、タイは日本と同盟した。この時タイは旧日本軍に対しマレー半島の英領マレーに対する優越を認めた。その一方でパタニ独立運動の指導者であるトゥン・マフムッド・マフユッディンは日本の敗戦によるパッターニー独立を条件にイギリスと同盟した。
一方でパッターニーの住民は戦時中のピブーンソンクラーム首相によるラッタニヨム(愛国信条)に頭を痛めていた。この信条には、仏像に礼拝するなどの項目が含まれていたからである。
1945年日本は敗戦した、その後イギリスの約束通り、パッターニーが独立するかに見えたので住民はパタニ国旗を揚げたという。しかし、イギリスは約束を反故にしたため、パッターニーは再びタイ領へ戻った。
その後、いくつかの独立を目標とするグループが組織された。先述のトゥン・マフムッド・マフユッディンは自身がパタニ王国のスルタンとなる独立を目指していたが、一方でハッジ・スロン・トックニマの支持する路線は旧イランのようなイスラーム革命を行った国を理想とするパタニ・イスラーム共和国をうち立てようとしていた。
なお現在では、パタニ連合解放組織が有力な組織である。
[編集] その後の経過
タイ政府はイスラーム人口の多い南部四県への国民統合政策を実施した。ソンクラー県は福建系華人と仏教徒の移住者が多くハジャイが南部の経済中心都市としてタイ中央やペナンとの関係を維持した。一方サトゥーン県はもともとクダーの一部であって、日常的にはタイ語が使われ、タイ文化との接触が大きかったため統合の経過は比較的穏やかである。しかし、日常的にマレー語を使っており、マレー・イスラーム意識の強い深南部三県のタイ国への同化には激しい抵抗が生じている。
深南部三県では国王襲撃事件など度々事件が起きていたが、政府の開発が大きく遅れたことや、汚職公務員や汚職警官などの「島流し」先としてこの地域が使われたため、深南部三県はあまり好ましい条件であるとはいえなかった。さらに、この地域のマレー人意識が強い人々は、タイ政府の学校には通わず、この地域やクランタンに特有のポンドック(あるいはポーノと呼ばれるイスラーム寄宿学校)に通い、タイ語教育を拒否するものが多かった。また、教育の機会を中東の大学に求めてイスラームとアラビア語の知識を深めたが,タイでは雇用の機会を得られず、貧困が深化していった。
パタニ地域の分離独立運動が激化したのは1950年代と1970年代である。タイ政府の強権的なゲリラ掃討作戦は却って中東の過激なイスラーム原理運動にムスリム住民をなびかせる結果となった。1980年代にはタイ政府は方針を転換し、一般タイ人へのムスリムへの理解を深める文化政策や地域への援助を含む開発策を講じ、1990年にはマレーシア側との軍事・開発協力計画が成立し,この地域の治安は一旦沈静化したかのようにみえた。
だが、タイ人,華人資本家による南部開発政策は、結果として富裕層と貧困層の溝を広げた。2000年以降、半島を横断するガス・パイプラインの建設を巡り,NGOやムスリム住民による反対運動なども起こっている。しかし、タクシン・チナワットが首相になるやいなや、タクシンの強権的な政治体制が深南部三県を刺激し、事態は一気に悪化した。2004年4月28日には、大規模な武力衝突がクルーセ・モスクで起こっている。
このような反政府運動は、多く「パタニ王国再興」を掲げており、栄光の時代であったパタニ王国時代への強い回帰指向が見え隠れしている。その上で栄光を奪い貧困の原因を作った(と彼らが考える)タイ政府を敵視し、独立すればかつての栄光が戻るという希望がこのような運動を生み出した背景であるともいえる。また、このような運動の高まりとしてアメリカ同時多発テロ事件が引き金になっているとも指摘されている。一見、数々のイスラーム系宗教団体が関わり、仏教僧殺害事件なども起こっていることから、仏教対イスラームの構図で捉えられがちであるが、実際はこのような背景を持っているのである。