渡辺プロダクション
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種類 | 株式会社 |
略称 | ナベプロ・渡辺プロ |
本社所在地 | 150-0091 東京都渋谷区神宮前6-27-8 京セラ原宿ビル5階 |
電話番号 | 03-5468-2300(代表) |
業種 | 番組制作会社・芸能事務所 |
代表者 | 代表取締役会長 渡邊美佐 代表取取締役社長 井澤健 代表取締役副社長 渡辺ミキ |
資本金 | 非公表 |
売上高 | 非公表 |
従業員数 | 非公表 |
外部リンク | [1] |
株式会社渡辺プロダクション(わたなべ-、Watanabe Productions Co., Ltd.)は、芸能事務所など12社1財団(自社含む)を統括する持株会社である。ナベプロとして知られる。代表取締役会長は渡邊美佐、代表取締役社長はイザワオフィス社長の井澤健、副社長は渡辺ミキ、専務は諸岡義明(他数名)が務める。本社は東京都渋谷区神宮前6丁目27番8号 京セラ原宿ビル5階。
目次 |
[編集] 概要
1960年代から1970年代にかけて「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの一人勝ち状態であった。ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、ザ・ドリフターズ(これら3グループを総称し「渡辺プロ3大タレント」と言われている)、園まり、ザ・タイガース、森進一、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズ等の大スターを多数抱え、番組も多数制作。ジャズミュージシャンであった渡邊晋と妻の渡辺美佐は、タレントに仕事先を見つけ、出演料の一部を受け取ることだけであった芸能プロの仕事を変革した。レコードやテレビ番組や映画を自社で制作して、レコードの原盤制作収入や番組制作費、興行収入が入ってくるようにし、戦後の新しい芸能ビジネスのスタイルを作った。また楽曲を管理し使用料を徴収するため渡辺音楽出版を設立し、渡辺プロに所属した歌手ばかりではなく海外のアーティスト(ミッシェル・ポルナレフ、ホワイトスネイク、クイーン等)の楽曲でも稼いでいる。
売れると寝る間もないほど働かせ、搾取もひどかった事から独立をもくろむスターも多かった。三人娘の一人である伊東ゆかりが独立すると各局に「ゆかりを出すなら渡辺プロのタレントは出演させない」と圧力をかけて干した。森進一や小柳ルミ子らも独立により同様に一時期民放全局に出演できなくなることとなった。日本テレビの公開番組スター誕生が成功するとホリプロ等が台頭し、1980年の漫才ブームで吉本興業、男性アイドルを多く持つジャニーズ事務所も力をつけたことにより、相対的に影響力が低下した。その後は独立するタレントの事務所の51%を渡辺プロが握ることを条件(渡辺プロ傘下になる)に表向き円満に独立を認めている。
なお、過去に渡辺プロダクションに所属していたタレントについては渡辺プロダクション・ワタナベエンターテインメントの所属者一覧を参照のこと。
[編集] グループ関連会社
- 渡辺音楽出版株式会社
- 株式会社渡辺企画
- 株式会社イザワオフィス
- 岩原観光株式会社
- 株式会社ザ・ワークス
- 株式会社サウンド・シティ
- 株式会社渡辺エンタープライズ
- 株式会社メイツ
- 株式会社ワタナベエンターテインメント
- 株式会社マニア・マニア
- 株式会社トップコート
- 株式会社トップコートミュージック
- 財団法人渡辺音楽文化フォーラム
[編集] 関連項目
- 渡辺晋(創業者)
- スクールメイツ
- マナセプロダクション
[編集] 外部リンク
- 渡辺プロダクショングループ公式ホームページ
- 渡辺プロダクション展覧会「抱えきれない夢 Pocketful of Dreams Watanabe Production 50th Anniversary」
渡辺プロダクション3大タレント | |
ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年 - 1993年): | ハナ肇(リーダー)・植木等・谷啓・犬塚弘・安田伸・石橋エータロー(1971年脱退)・桜井センリ(1960年加入) |
ザ・ドリフターズ(1964年 - 活動中): | いかりや長介(リーダー)・高木ブー・仲本工事・加藤茶・志村けん(1974年加入)・荒井注(1974年脱退) |
ザ・ピーナッツ(1959年 - 1975年): | 伊藤エミ(姉・ハーモニー)・伊藤ユミ(妹・メロディー) |