渡部絵美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡部 絵美(わたなべ えみ、本名:渡部・キャスリーン・絵美、1959年8月27日-)は、日本の元フィギュアスケート選手で、現在は女性タレントである。東京都出身。身長155センチメートル・血液型O型、最終学歴は専修大学。 父の純一は、フィリピン航空の日本地区総責任者であり、本人はよくファーストクラスに乗っていた。
アメリカ合衆国の高校を卒業後、上智大学に入学。その後、1979年にスケート界の名門でもある専修大学に移籍し、ウィーンで開かれた世界選手権で3位を獲得、一躍“時の人”となった。1980年6月23日、フィギュアスケート界の引退を発表する。
2006年トリノオリンピックの日本代表選考は2004年の時点で定められていたオリンピックポイント制(出場した大会の順位毎にポイントが与えられ総得点の多い選手を代表とする)によるものであったが、渡部は代表決定を、スポンサーに配慮した選考だ、などと的外れな批判を各所で展開しフィギュアスケートに余り興味の無いものにとんでもない誤解を植えつけてしまった。
目次 |
[編集] 来歴
- 父は日本人の純一。母は父が太平洋戦争でフィリピンへ出征した際に出会い、その後結婚して来日したフィリピン人のリディア。なお、母の影響で絵美はじめ一家そろって敬虔・厳格なローマ・カトリック信徒。父は2005年7月、心不全のため85歳でフィリピン・ネグロス島にて他界。
- 幼少期よりスケートを始め10歳でアメリカ合衆国へスケート留学をする。
- フェリック・キャスパーを指導者として才能をのばし国内選手権で好成績を修める。(全日本フィギュアスケート選手権8連覇(1972~1979)など)
- 幼少時に渡米、英語を主体とした生活を送っていた為に日本語がぎこちなくなった。
- 当時日本人女性選手の殆どが強張った表情での演技をしていたのに反し、渡部選手は出来の善し悪しに関わらず満面の笑みでの演技をする事で知られていた。その笑顔が『絵美スマイル』と呼ばれ人気の源となった。
- 現役時代は、同じく笑顔で知られるジャネット・リンが一世を風靡した事、そして渡部とリンのスケーティングの質が極似していた事もあり、当時渡部は『日本のジャネット・リン』と呼ばれていた。
- 1976年インスブルックオリンピックに16歳の若さで出場。13位に入る。
- 1977年の東京に於ける世界選手権では不本意な成績を収めながら、彼女の基礎技術の正確さとジャンプの質のよさが国際スケート連盟(ISU)の役員達の目にとまり、この時期から暫くの間ISUのマニュアルに「ダブルアクセルは、渡部絵美のように跳ぶのが理想的である」と表記されるようになったという逸話がある。
- 2年後の1979年の世界フィギュアスケート選手権で日本女子史上初の3位入賞(銅メダル獲得)を成し遂げた。
- メダルが確実視された1980年のレイクプラシッドオリンピックでは、ショートプログラムで得意のダブルアクセルからのコンビネーションに失敗、フリーでも精彩を欠き福原美和(5位)以来の6位入賞に留まった。
- 渡部選手引退以来、1981年、1991年、そして2005年とフィギュアの採点ルールは三回主要改正されている。渡部が活躍した1980年までは、現在は廃止された規定が重要視されており、渡辺はこれを苦手としていた。ショートプログラムと自由演技を得意とした渡部が「現行採点だったらもっと活躍できたのでは?」と言われる背景にはこういった理由がある。例えば1980年の世界選手権の場合、1991年改正版のルールでは同一の試合内容で二位入賞となっていた。
- レイクプラシッドオリンピック終了後にアマチュア引退、アイスショー等で佐野稔と一時期ペアを組んだり、ジュニアの育成に力を入れていた時期もあったが、現在はタレント活動が主である。
- 若い世代には最近の毒舌な発言により『単なるうるさいおばさん』と思われがちだが、現在の女子フィギュアの基礎を築いた点では彼女の貢献は否定出来ない(全日本選手権8連覇の記録は女子では伊藤みどりと並び現在も破られていない)。
- 渡部がスケート界を早くに去ったのは長らく若くしてのタレント転向ゆえだったといわれていたが、2005年3月堤義明が不祥事で逮捕された直後に、堤との確執(一部では堤による渡部へのセクシャル・ハラスメント加害説あり)も一因あったことを明かした。永年日本のウィンター・スポーツの利権・運営を独占してきた堤が渡部に立腹、パワー・ハラスメントとして渡部にリンクのロッカーすら使用禁止にするなどといった嫌がらせがあったという。
- かつてコクドのアイスホッケー部員と結婚・息子一人を授かったが、相手の事業失敗が原因で破局。絵美は当時、「カトリック信者の母は(絵美の)離婚に相当落胆し、再婚もしてほしくない(離婚・再婚はカトリックでは歓迎されない傾向が強い)とボヤいていた。」と語っていた。
[編集] 成績
- 1976年 - インスブルックオリンピック フィギュアスケート女子シングル 13位
- 1979年 - 世界フィギュアスケート選手権 フィギュアスケート女子シングル 3位(銅メダル)
- 1980年 - レイクプラシッドオリンピック フィギュアスケート女子シングル 6位
[編集] 政歴
- 2001年 第19回参議院議員通常選挙比例代表に自由連合から立候補し落選。個人名得票6501(自由連合候補者名簿内47名中14位)。
[編集] 外部リンク
1935: 東郷球子 | 1936-1940: 稲田悦子 | 1946: 月岡芳子 | 1947: 丹羽芳子 | 1950: 稲田悦子 | 1952: 月岡芳子 | 1953-1954: 山下艶子 | 1955-1958: 上野純子 | 1959: 福原美和 | 1960: 上野純子 | 1961-1965: 福原美和 | 1966-1967: 大川久美子 | 1968-1971: 山下一美 | 1972-1979: 渡部絵美 | 1980: 小林れい子 | 1981: 吉田万里子 | 1982: 小沢樹里 | 1983: 加藤雅子 | 1984-1991: 伊藤みどり | 1992-1993: 佐藤有香 | 1994: 横谷花絵 | 1995: 伊藤みどり | 1996: 村主章枝 | 1997-1998: 荒川静香 | 1999: 椎名千里 | 2000-2002: 村主章枝 | 2003-2004: 安藤美姫 | 2005: 村主章枝 | 2006: 浅田真央 | |
カテゴリ: 日本のフィギュアスケート選手 | オリンピックスケート日本代表選手 | 日本のタレント | オリンピック出身タレント | 国政選挙立候補経験者 | フィリピン系日本人 | 東京都出身の人物 | 1959年生 | スポーツ関係者関連のスタブ項目