濃尾地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
濃尾地震(のうびじしん、Nobi Earthquake)は、明治時代、濃尾地方に発生した地震。「濃尾大地震」とも呼ぶ。正式には「美濃・尾張地震(みの・おわりじしん、Mino-Owari Earthquake)」と命名されている。
目次 |
[編集] 概要
1891年(明治24年)10月28日午前6時38分発生。規模は当時のデータから後にマグニチュード8.0と推定された。(8.4とするものもある)。根尾谷断層という大断層が活動した活断層型の地震で、典型的な直下型地震であり、これは日本の陸域で発生した地震としては史上最大で、世界的にみても最大級である。この地震で、上下差6メートルにも及ぶ根尾谷断層が地表に出現した。
震央は岐阜県本巣郡根尾村(現在本巣市)の東経136°20´、北緯35°35´の地点。
[編集] 被害
岐阜県、愛知県に大きな被害をもたらした。被害は滋賀県、福井県にも及んだ。理科年表によると死者数は7,273名、負傷者17,175名、全壊家屋数は約14万戸を数えた。震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、“ギフナクナル”(岐阜、無くなる)だったという。
建築物では、名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物も被害を受けたが、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された。
『鉄道唱歌』でも、岐阜の紹介として、鵜飼と並んで地震が歌われている。
[編集] 学術的な意義
この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張した。
地震学者大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している。ちなみに、1世紀以上経た現在もなお、余震が続いている。