熊沢寛道
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熊沢寛道(くまざわ ひろみち、1889年12月18日 - 1966年5月11日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、正統な皇位継承者を主張した自称天皇たちの代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
熊沢の主張は以下の通りである。熊沢家は、足利氏に帝位を追われて尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家である。
[編集] 生涯
熊沢寛道は幼名を金四郎といった。既に明治時代に南朝皇裔承認の請願を行っていた養父熊沢大然(くまざわ ひろしか)に「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ち、父の死後、熊沢は南朝第118代天皇としてひそかに即位したという。そして、1920年から自分が天皇であるとして上申書を要人に送り続けていた。
1945年、名古屋市千種区内で雑貨商を営んでいた熊沢は、戦災で店を失い、廃業を余儀なくされる。同年、日本が連合国の占領下に入った後、11月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー総司令官あてに請願書を送った。その嘆願書が丸ノ内郵船ビル総司令部翻訳課の担当中尉と親しい雑誌『ライフ』記者の目にとまった。
翌1946年1月、アメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は『ライフ』、AP通信、ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。なお、他に熊沢天皇と称する4名(そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇も数名)も現れた。
勢いづいた熊沢は、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが、歴史学者によって熊野宮信雅王の実在は否定されてしまう。一方、昭和天皇が全国を行幸して国民を激励し、歓迎を受けている様を見て、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。
1951年、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。
なお、竹内文書で有名な天津教が南朝方の寺から盗まれた宝を古物商から買い取ったとして返還要求していた。
その後、ほとんど世間から忘れ去られていった熊沢は、支持者の家を転々としながら活動を続け、政治団体「南朝奉戴国民同盟」の設立を目論んだが失敗する。1957年、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年の総選挙では日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。
1966年に東京板橋で膵癌のため死去。その死のニュースは外電に配信されたが、もはや記事に取り上げる海外のマスコミは存在しなかったという。
[編集] 参考文献
- 保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年) ISBN 4043556039
- 天皇が十九人いた p14~p41
- 〔初出:『文藝春秋臨増 文藝春秋ノンフィクション』1987年4月〕
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年) ISBN 4167453053
- 第27~28章 熊沢天皇始末記 上、下 p127~p170
- 〔初出:『正論』1989年6~7月号〕
- 山地悠一郎『後南朝再発掘 熊沢天皇事件の真実』(叢文社、2003年) ISBN 4794704526