牧野の戦い
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牧野の戦い(ぼくやのたたかい)は、古代中国の紀元前11世紀に、殷の紂王と周の武王を中心とした勢力が争った戦い。周軍が勝利し殷王朝は倒れ(克殷)、周王朝が天下を治めることになった。
[編集] 事前の経緯
『史記』によれば殷末の紂王は暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。
紂王はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。西伯姫昌は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、紂王に疑われて奴隷とされた。さらに紂王は殷の人質となっていた姫昌の長男伯邑考を羹(あつもの、スープのこと)にして姫昌に食べさせた。姫昌の家臣たちが紂王に莫大な贈物をしたので姫昌の疑いは晴れて解放されたが、姫昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。
姫昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の姫昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。
姫昌の後を継いで次男姫発(武王)が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。
姫発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍の侵攻を許し、姫発は殷を容易に滅ぼすかに見えたが「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。
この理由は不明であるが、
- 占いによって殷を滅ぼすのが不吉と出た。
- 諸侯の力を借りてあまりに素早く殷を滅ぼしてしまうと、周が王朝をひらいたときに諸侯の力が強くなりすぎると考えた。
などの理由が考えられている。
[編集] 牧野の戦い
数年後、姫発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったと言われている。周軍は孟津という港から黄河を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。姫発は怒り、河の神に向かって「天命はすでに下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることが出来た。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白魚は殷のシンボルである。
周軍と殷軍は殷の首都・朝歌に近い牧野というところで決戦することになった。『史記』周本紀によれば今回は殷の準備も万全で70万という大軍を動員した。対する周軍は諸侯の軍を加えても40万である。決戦の前はまたしても雷雨がとまらなかったが、姫発は殷の湯王が夏の桀王を破って王朝をひらいた鳴条の戦いにおいても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気付けた。
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための神官を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵からなりたっていた。彼らも暴虐な紂王の支配に嫌気がさしていたので、戦いの途中で矛先を変えて襲い掛かったので、殷軍は壊滅した。
[編集] 事後
周軍は紂王を追って朝歌まで攻め入った。紂王はもはやこれまでと覚悟を決め、王宮に火を放って死んだ。姫発は紂王の遺体に三本の矢を放ってから鉞で首を落としたと言う。『尚書』牧誓によれば、この日の干支は甲子であると記され、出土した青銅器銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、姫発は周王朝をひらいた。
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や甲骨文においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。