王仁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王仁(わに/おうじん、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる伝説的な人物。実在したかどうかは疑問視される場合もある。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と表記されている。
目次 |
[編集] 漢籍と儒教
王仁に関しての記述が存在するのは古事記、日本書紀、および続日本紀のみである。それぞれの記述は以下のようになっている。
[編集] 古事記
古事記によると王仁は百済から献上された賢者とされる。
- 文:「百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進(此和邇吉師者、文首等祖)
- 訳:百済にもし賢人がいるのであれば献上せよとの(応神天皇の)命令を受け、(百済が)献上した人の名前は和邇吉師(わにきし)という。論語十巻と千字文一巻のあわせて十一巻をつけて献上した。(当時、まだ千字文は編纂されていない)
[編集] 日本書紀
日本書紀によると、王仁は阿直岐(あちき)という学者の推薦を受け、応神天皇の招待に従って渡来し、後に日本に帰化した学者である。
王仁によって『論語』『千字文』が日本にもたらされ、日本に儒教と漢字が伝えられたとされている。ただし、千字文は王仁が来日した際にはまだ編集されておらず、この記述から王仁の実在には疑問符がつけられることも少なくない。帰化した複数の学者が、紀記編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。
[編集] 続日本紀
続日本紀によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の項羽の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。このことから王仁は楽浪郡出身で百済にやってきた漢人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。この記述が真実であれば、王仁は313年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられる。
朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても楽浪王氏であるという説は説得力を持っている。
[編集] 韓国での王仁
韓国で王仁は日本に文化を伝えた『韓国人』として扱われており、中学生用の国定歴史教科書には「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と記述されている。しかし、韓国に残る歴史書である三国史記、三国遺事などの書籍には王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。王仁は日本書紀、古事記、続日本紀にのみ記述のある存在である。
なお、近年の韓国において、全羅南道の霊岩郡では、毎年王仁博士祭りを開き、日本に文化を伝えた王仁を記念している。
[編集] 古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる歌
- なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
- 古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされるこの歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる。古今和歌集 仮名序 紀貫之
[編集] 王仁塚
真偽は不明であるが以下に示す。
- 伝王仁墓(大阪府枚方市)
- 名称 大阪府史跡 伝王仁墓
- 場所 大阪府 枚方市藤阪東町三丁目
- 経緯
- 王仁大明神( 八坂神社)
- 名称 一本松稲荷大明神
- 場所 大阪市大淀区大仁町
- 経緯 王仁の墓と伝えられていた
- 王仁遺跡
- 名称 王仁墓
- 場所 全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里山
- 経緯
- 1968年 金昌洙来日
- 1970年 金昌洙再度来日 王仁の資料収集
- 王仁研究所設立
- 1972年 8月 金昌洙, 中央日報に『百済賢人 博士王仁』15 回連載
- 10月19日 姜信遠(霊岩郡青年会議所会長)の情報提供で当地生誕地と認定。[2]
- 1973 年 2月 現地調査
- 金昌洙「王仁出生地 霊岩郡」説を発表。
- 金昌洙 「社団法人王仁博士顯彰協会創立」
- 1975年 6月 金昌洙「博士王仁 日本に植えた韓国の精神」を出版
- 全羅南道教育委員会 王仁博士 遺跡学術セミナー 開催
- 1976年 全羅南道文化財委員会 王仁遺跡文化財指定調査報告書
- 全羅南道 王仁博士遺跡地 道文化財記念物20号とする。
- 「王仁博士遺墟碑」を現地に建立。
- 王仁塚(山梨県韮崎)
- 名称 王仁塚あるいは鰐塚
- 場所 韮崎市神山町北宮地
- 日本武尊の王子武田王の墓と言われるもので、王仁とは無関係