甘英
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甘英 (かんえい、ウェード・ジャイルズ記法:Kan Ying) は、ローマに派遣された中国の軍事大使であり、紀元97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を託された。彼は、7万人の規模を持った班超の遠征軍の一員であり、甘英は軍と共に、パルティア王国の西の国境まで到達した。
[編集] 概説
甘英はおそらくローマには到達しなかったと考えられるが、少なくとも歴史に記録されている限りでは、古代において、中国人としてもっとも西方へと旅した人物である。
後漢王朝(紀元25年-紀元220年)の歴史を記した『後漢書』の記述に従えば:
- 「(和帝の)第九年(紀元97年)、班超はその副官である甘英を、「西の海」の海岸と、途上の諸地域へと派遣し、帰還を命じた。これ以前の時代には、誰もこれらの地域に到達した者はおらず、『山海経』にも詳細は記述されていなかった。甘英は探検旅行で知ったすべての国々について、その慣習や地勢に関する報告書を作成した。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
『後漢書』の別の部分には、また以下の記述がある:
- 「和帝の第九年(紀元97年)、班超はその副官である甘英を大秦へと派遣し、(甘英は)條支 Tiaozhi を通過して、安息 Anxi (パルティア)の西の境において、「大いなる海」(ペルシア湾)の岸へと到達した。」(『後漢書』88)
甘英はローマ(中国では当時「大秦」と呼ばれていた)についての報告を残したが、それは間接的な資料に依拠せざるを得ない。彼はローマの位置を、「海」の西側に比定している:
- 「その版図は何千里にも渡る領域に及び(「里」は中国での里であり、およそ500メートルほどである)、城壁で囲まれた 400 を越える都市を含む。数十の小国が臣従している。都市の外壁は石造りである。駅舎制度が確立されている。……松とイトスギが生えている。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
彼はまた、ネルウァによる養子制度での帝位継承について述べており(ネルウァはトラヤヌスを養子として、彼に帝位を譲った)、ローマ人の身体外見やその産物などについても述べている:
- 「王については、世襲で決まっているのではなく、もっとも資質に適う者が選ばれている。……この国の人々は長身で、釣り合いの取れた容貌を持っている。人々は中国人に似ており、これが、この国が大秦( Da Qin,大いなる秦)と呼ばれている理由でもある。土地からは、多くの金や銀、また、夜間に光を発する宝石を含む様々な珍しい宝石が産出する。……人々は、多彩な色を持つタペストリーやダマスクを造るため、金糸を使って刺繍した布繊維を縫う。金塗装した布や、「炎で洗った布」(アスベスト)を造る。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
最終的に甘英は、シルクロードの西の端にある対極としてのローマを正しく把握した:
- 「様々な、驚嘆すべきまた類稀な外国の物品はすべて、この国から齎されるのである。」(『後漢書』 : レスリーとガーディナーによる引用)
[編集] 参照
- 中国とローマの関係
[編集] 参考文献
- レスリー及びガーディナー 『中国側の資料に見るローマ帝国』 ローマ、Bardi 1996年
- フランセス・ウッド 『シルク・ロード』 カリフォルニア大学出版: ISBN 0520243404
- en:Gan Ying 23:40, 6 May 2006 より翻訳(後半)・訳修了
- contributors:PHG, 212.129.143.28, Kizor, 202.156.6.54, Eiorgiomugini, Piotrus, Liuyao et al.