田谷力三
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田谷 力三(たや りきぞう、1899年1月13日 - 1988年3月30日)は、大正時代から昭和時代の人気オペラ歌手。正統派のテノール歌手として浅草演芸界の花形として、多くの人に愛された。また、田力(でんりき)という愛称でも知られた。
東京・神田の生まれ。旗本の血を引く家系の家に生まれる。10歳の時に、日本橋にある三越で少年音楽隊に出会い、歌手を志し、すぐに「三越少年音楽隊」に入門。その天性の美声で早くも頭角を現した。1917年に18歳のときにオペラ歌手として満を持してデビュー。原信子、清水金太郎らと浅草オペラで活動し、当時は物珍しかったオペラのパイオニア的存在としてその名を轟かせた。田谷の歌声に感動して、藤原義江も歌手を志した。他にも東八郎や大宮敏充(デン助)にも芸能界へ入る志を与えたといわれている。
大正から昭和の初期まで浅草でのオペラ界人気の頂点に君臨し続けた人気を誇り、それ以降も歌手として華々しい活躍を続けた。ヒット曲に「巴里の屋根の下で」などがある。また、フジテレビの「夕やけニャンニャン」・「ザ・スカウト~アイドルを探せ~」の審査員を務めるなど、タレントとしても活躍、1988年に89歳で没するまで生涯現役を通し、日本の芸能界に大いに軌跡を残した人物であった。 80歳を過ぎて、再婚した(相手は長年の愛人でマネージャーだった)ことも話題となった。二人の妻の間にも子供はいない。両者共に田谷より先に亡くなっている。
死後、その遺体は献体され解剖されたが、その人々を魅了する美声を生み出した声帯については、その年齢からは当然考えられる衰えが全く見られぬ鍛え抜かれた若々しいもので、解剖に携わった医学関係者たちをも大いに驚かせた。
[編集] その他
浅草オペラのファンであった宮沢賢治は、1924年に執筆した自作の詩「函館港春夜光景」に田谷の名前を読み込んでいる。その縁で、田谷は1984年に賢治の没後50年を記念して開かれた「音楽の夕べ」に招かれ、賢治に歌声を捧げた。