直江景綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 戦国時代、安土桃山時代 | |||
生誕 | 1509年(永正6年)? | |||
死没 | 1577年3月24日(天正5年3月5日) | |||
改名 | 実綱→景綱 | |||
主君 | 長尾為景、長尾晴景、上杉謙信 | |||
氏族 | 直江氏 | |||
父母 | 父 直江酒椿 | |||
子 | 娘 お船の方(直江信綱、樋口兼続室)、 |
直江 景綱(なおえ かげつな、永正6年(1509年)? - 天正5年3月5日(1577年3月24日))は越後の戦国大名長尾氏・上杉氏の家臣。はじめ実綱と名乗る。父は直江酒椿という。謙信より20歳程年長だったといわれる。
長尾為景、長尾晴景、上杉謙信の三代にわたって仕えた宿老で、政治手腕に優れていた。1560年、謙信が北条氏康討伐のために関東に出陣したときには、春日山城の留守居を務めている。上杉氏には武勇の士が多かったから、景綱は内政などの事務的なことにおいて活躍し、謙信に重用されたという。このため、謙信のかつての名前である景虎の一字をもらって、景綱と名乗ることになったのである。
軍事面においても1577年の能登遠征に従うなど、謙信に従って各地に従軍したが、同年病没。功賞が少なすぎると恨んだ家臣に殺されたという説もあるが、後継者の直江信綱と混合した誤記とされる。
景綱には男子がなく、娘婿の直江信綱が跡を継いだ。のちに信綱が御館の乱の恩賞をめぐる騒動に巻き込まれて同僚に殺害されると、直江氏が断絶するのを惜しんだ上杉景勝の命で樋口兼続が信綱の跡を受け直江氏を相続する。