祐天仙之助
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祐天 仙之助(ゆうてん せんのすけ、文政3年(1820年)頃 - 文久3年10月15日(1863年11月25日))は、幕末の侠客。駿河もしくは甲州の生まれ。別名山本仙之助。
甲府元紺屋町の行蔵院で育ち、祐天という姓を授かる。20歳で博打打ちとなり、やがて賭場の親分で遊郭の主である三井の卯吉の代貸しとなるが、岡っ引も兼ねる。
弘化3年(1846年)、竹居の吃安(安五郎。黒駒勝蔵参照)の用心棒・桑原来助を殺害。(但し、大村の供述によると用心棒ではなく、剣術修行のため鰍沢を通った時に祐天の非道を諭したところ襲撃され殺されたとされる)
島抜けの吃安の逮捕には石和代官所の走狗となり高萩万次郎、犬上郡兵衛らと謀計を用いて捕縛。勝蔵の襲撃には予め用意しておいた鉄砲によりこれを撃退する。
文久3年(1863年)、子分内田佐太郎らと共に浪士組に応募して五番隊伍長に任命される。姓を山本と称した。この時、同じ浪士組に桑原来助の息子・大村達尾が六番隊に所属していた。
浪士組として京都へ入ったものの、すぐさま江戸へ引き返すこととなり、そのまま新徴組に入隊。大村達尾も新徴組に所属していたため、そのうち父の仇であるということがばれ、同年10月15日朝方、板橋の遊郭から出てきたところを、大村とその友人で新徴組隊士の藤林鬼一郎らによって斬殺された。享年44。(42、45歳説もある。)
祐天没後、子分・内田佐太郎が新徴組に訴えて、大村・藤林らと決闘し、二人を殺害したと言われている。内田は東京で暮らしていたが後、神戸に移り長寿で没したと伝えられる。