神谷伝兵衛
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神谷 伝兵衛(かみや でんべえ、神谷傳兵衛、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は、三河国松木島村(現在の愛知県幡豆郡一色町)出身の実業家。東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。
幼名は松太郎。後に婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵が二世神谷伝兵衛を名乗る。
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[編集] 略歴
1856年2月11日、三河国松木島村の名主の六男として生まれた。父は兵助(ひょうすけ)、母は石(いし)。 神谷家の先祖は武士で江戸時代の初めに農家になったが、代々名主をつとめる家柄であった。しかし父親の兵助は多趣味で、家業を顧みることがなかったため家は貧しくなり、幼くして働きに出ることとなった。8歳で酒樽造りの弟子として働き、次に姉の嫁ぎ先の家で商業の見習をし、11歳の時には商人として独立した。綿の仲買人や雑貨の行商などを行っていたが、16歳の時に失敗して全財産を失う。1873年4月に兄の勧めもあり故郷を後にして、横浜にあったフランス人の経営するフレッレ商会酒類醸造場で働いた。ある時、病気で衰弱して命に関わるまでになったおりに、主人の勧めた葡萄酒により体調を回復させてその滋養を知る。
1874年4月9日に父親の兵助が亡くなると神谷家の家督相続を行ない、幼名の松太郎から伝兵衛と改名した。19歳で横浜の会社を辞めて、東京麻布(現・東京都港区麻布)の天野酒店に入り酒の引き売りを始る。寸暇を惜しんでの商売でできた蓄えを元手に、1880年4月、東京浅草に酒の一杯売り家「みかはや銘酒店」(後の神谷バー)を開く。輸入葡萄酒を原料として作った、日本人が好む甘口の再製葡萄酒は評判を呼び、1885年に「蜂印葡萄酒」、1886年に「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名前で売り出し、海外でも高い評価を受けた。1898年に、念願だった葡萄酒づくりに着手すべく茨城の原野を開墾し神谷葡萄園を開園、1903年に醸造場の神谷シャトー(牛久シャトー、現・シャトーカミヤ)を竣工させる。1912年4月10日に浅草の店を改装し神谷バーを開業、同年5月30日の三河鉄道の創立に取締役として参加、1916年4月5日に同社社長に就任する。
1922年4月24日に66歳で亡くなる。遺体は希望通り神谷葡萄園の中の墓地に埋葬されたが、1978年に東京都台東区谷中の天王寺墓地に移された。茨城県牛久市のシャトーカミヤの中には神谷傳兵衛記念館があり、また、神谷公園墓地跡には伝兵衛を讃える記念碑が残っている。
[編集] 神谷バー
1880年4月、東京府浅草区花川戸町(現・東京都台東区浅草)に、郷里の三河にちなんだ名前の「みかはや銘酒店」を開業し酒の一杯売りを始めた。当初はにごり酒を売っていたが、1881年に輸入葡萄酒の再製販売を、1882年に速成ブランデー(現在の電気ブラン)の製造販売を始める。1912年4月10日店舗内部を西洋風にして屋号を「神谷バー」と改めた。 現在も使用している建物(神谷ビル)は1921年に建てられた。
1960年に洋食部門の営業開始、1970年に割烹を開店、1980年には新館が落成した。2004年 には神谷バー売場を開業し現在に至っている。
[編集] シャトーカミヤ
浅草で神谷バーを開店し成功をおさめた神谷伝兵衛は、その成功によって得た資金を元に、念願だった葡萄酒づくりを実現させようとした。 この時に尽力したのは婿養子の伝蔵だった。妻チヨとの間に子供のなかった伝兵衛は、兄の圭介の長女・誠子を養女に、そして働き者で研究熱心と評判の高かった小林伝蔵を婿養子として迎えた。伝蔵は結婚式の3日後の1894年9月24日に葡萄栽培と葡萄酒醸造の技術習得を託され渡仏、1897年1月12日に多くの参考書や醸造用具、土の標本などを携えて帰国した。伝兵衛は伝蔵の帰国後すぐ苗木6000本を輸入し東京郊外の村に試植、順調な苗の生育に日本国内での葡萄栽培に自信を持った。茨城県稲敷郡岡田村(現・茨城県牛久市)に土地160haを購入すると、開墾して1898年に「神谷葡萄園」をつくった。1901年に仮醸造場で葡萄酒を誕生させると、1903年9月に本格的な醸造場(現在のシャトーカミヤ)を完成させた。
現在の牛久市のシャトーの葡萄園は、1990年代に残っていた部分は大方駐車場等に変わり、極僅かに垣根式栽培を残すのみである(僅かでも残すことは、ワインの原材料の栽培から瓶詰めまで一貫生産を行う「シャトー」称号に関わるためと思われる)。また、かつて葡萄園であった土地の一部に「神谷」という地名を付けている。
[編集] 三河鉄道
1914年に開通した、神谷伝兵衛の故郷の愛知県三河地方を走っていた鉄道。1941年に名古屋鉄道と合併して名鉄三河線となり、さらに名鉄蒲郡線を分離した。2004年に三河線の一部区間が廃止された。
神谷伝兵衛は1910年の鉄道敷設申請時から取締役として携わっていたが、1916年に経営危機に陥ると、乞われて3代目の社長に就任。自らも莫大な資金を投入して経営再建を果した。4代目社長には婿養子の神谷伝蔵(二世神谷伝兵衛)が就任し、神谷伝兵衛の没後4年の1926年に路線が故郷の松木島に至ると、功績をたたえ駅名は「神谷駅」(1949年に松木島駅と改称)と付けられた。建設当時に三河鉄道の中では一番立派といわれた、鉄筋コンクリート造りのモダンな駅舎は1978年に老朽化のため取り壊された。2004年に三河線の一部廃止に伴い、故郷の松木島を通る区間は無くなった。
[編集] その他
- 蜂印香竄葡萄酒(ハチブドー酒)
- 1886年に商標登録した葡萄酒の名前だが、「香竄」(こうざん)は多芸多趣味に身をやつしていた父の雅号を由来とし、また、豊かな芳しい香りが隠れ忍んでいるという意味も込めた。シャトーカミヤの中にあるショップにも「香竄」の名が付けられている。
- 日本人の口に合うよう蜂蜜で甘くしたこの葡萄酒(ワイン)が大人気となったため、以降の日本では甘口のものが好まれて、なかなか本格ワインが普及しなかった。