頼山陽
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頼 山陽(らい さんよう、男性、安永9年12月27日(1780年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人である。芸術にも造詣が深い。また陽明学者でもあり、大塩平八郎に大きな影響を与えている。幼名は久太郎(ひさたろう)、諱は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。また三十六峯外史とも号した。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。
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[編集] 経歴
父の頼春水(1746 - 1816)は幼い頃から詩文や書に秀で、1766年(明和3年) には大坂へ遊学。尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め,大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀〉に私塾「青山社」を開いて,その居宅を「春水南軒」と名づけた。山陽が生まれたのはこの頃である。母もまた梅颸の雅号を持つ文人で、84まで長命したが、ために息子山陽に先立たれることとなる。
1781年(天明元年)12月、春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居。山陽は城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、18歳になった1797年(寛政9年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の1800年(寛政12年)9月、突如脱藩を企て上洛し、京の放蕩仲間・福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏する。しかし新九郎の家で発見されて広島へ連れ戻され、廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、三年間は著述に明け暮れた。『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。
謹慎を解かれたのち、やはり父春水の友人であった儒学者の菅茶山([1748 - 1827)より招聘を受け、茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。山陽30歳、1809年(文化6年)のことである。が、その境遇にも満足できない山陽は、学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから、2年後に京都へ出奔した。
1811年(文化8年)、32歳以後は没するまで洛中に居を構え、開塾する。1816年(文化13年)父・春水が亡くなると、その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。山陽は京都に在って営々と著述を続け、1826年(文政9年)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。ときに山陽47歳。翌年には老中・松平定信に献上された。
山陽はその後も文筆業にたずさわり、『日本政記』『通議』等の完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し、喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、1832年(天保3年)9月23日、ついに卒した。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば、山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり、死顔には眼鏡がかかったままであったという。京都円山公園・長楽寺に葬られた。広島市中区袋町に復元された旧居、京都市上京区東三本木に書斎の「山紫水明處」が保存されている。
[編集] 著作
司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが、前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
『日本外史』は武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が散見される。史書というより歴史物語と言うべきだが、幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また、「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は、広島在住時の1804年(文化元)に完成したが、のちにこれを改稿して『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、死後に門人の石川和介が山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文の愛読書であったことでも知られる。
なお、山陽は「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩、「題不識庵撃機山図」の作者としても有名。同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全八巻)に収める。ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全一巻)がある。
[編集] 系譜
総兵衛正茂―彌七郎道喜―彌右衛門良皓―又十郎惟清―彌太郎惟完―久太郎― 春水 山陽