秩父宮雍仁親王
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秩父宮 雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年(明治35年)6月25日 - 1953年(昭和28年)1月4日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の第二皇子で、母は貞明皇后。 幼名は淳宮(あつのみや)。 妃は旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恒雄の長女・勢津子。階級は陸軍少将。勲等功級は大勲位功三級。
1922年(大正11年)に20歳で成人式を行い、宮家を創立。「秩父宮」の宮号は、秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置した事にちなみ選定された。1928年(昭和3年)9月28日、松平勢津子と結婚。
陸軍に入り、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に昇ったが、1940年(昭和15年)から肺結核に悩み、終戦時には御殿場別邸にて療養中であった。 戦時下より一貫して戦争拡大政策に批判的であったといい、戦後は療養生活を送りながら執筆活動を行った。
明治以降の近代天皇制ではじめての皇弟であったこと、寡黙で学者肌であった昭和天皇に対しテニスや登山を好んだ活発な性格であったこと、上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物であったこと、陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから二・二六事件の際、反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していた(それどころか秩父宮が反乱将校を実質支持していたとまでする説もあった)、マッカーサーをはじめとするGHQによって、昭和天皇退位と秩父宮即位の動きがあった、などの風説がうまれた。
社会活動としてはスキー、ラグビー等スポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場、秩父宮スポーツ博物館にその宮号を遺している。これに先立つ花園ラグビー場設置(1929年)に当たっても、一声あったと言われる。さらにその前年、1928年2月には札幌の手稲山の山小屋で将来の冬季五輪招致のために世界規格の大型ジャンプ台の建設を発案し、建設に尽力した。 また、日英協会、日本瑞典(スウェーデン)協会の総裁等を務め、国際親善事業においても足跡を残した。登山にも積極的であり、英国留学中にはマッターホルン登頂を果たしている。
1953年(昭和28年)1月4日、子供が無いまま、療養先である神奈川県藤沢市の鵠沼別邸にて薨去。享年は52(数え)であった。雍仁親王は宮号ゆかりの秩父神社に合祀されている。42年後の1995年(平成7年)8月25日、妃勢津子の薨去により秩父宮家は絶家となった。
大正天皇崩御から明仁親王誕生まで皇位継承順位は第1位であったが「皇太子」や「皇太弟」という称号はなく、一宮家の男子皇族であった。
[編集] 関連書籍
- 著作 - 『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版、2005年) ISBN 4902119048
- 伝記 - 保阪正康『秩父宮-昭和天皇弟宮の生涯』(中公文庫、2000年) ISBN 4122037301