立原道造
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立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914年)7月30日 - 昭和14年(1939年)3月29日)は、昭和初期に活躍した詩人、建築家。父は婿養子立原貞次郎、母は立原登免(通称 光子)。次男として生まれる。先祖には立原翠軒、立原杏所などがいる。学歴は東京帝国大学工学部建築学科卒業。称号(現学位)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。墓は東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。
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[編集] 生涯
大正3年(1914年)、立原貞次郎、トメ夫妻の長男として日本橋区橘町に生まれる。祖先は水戸藩の儒家で、『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所につながる。昭和2年(1927年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した昭和6年(1931年)、短歌の倶楽部に入部した道造は『詩歌』に投稿するなど高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。翌7年(1932年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。高校最後の年を迎えた昭和8年1933年、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作、翌年には東京帝国大学工学部建築学科に入学した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した。大学卒業年次を迎えた昭和11年(1937年)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
翌12年(1938年)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。昭和14年、第1回中原中也賞を受賞したものの、同年3月29日午前2時20分、24歳で没した。
詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。平成9年(1997年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立された。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。
立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工した。[1]
[編集] 主な作品
[編集] 『萱草に寄す』
- SONATINE NO.1
- はじめてのものに
- またある夜に
- わかれる昼に
- のちのおもひに
- 夏花の歌
- その一
- その二
- SONATINE NO.2
- 虹とひとと
- 夏の弔ひ
- 忘れてしまつて
[編集] 『暁と夕の詩』
- I 或る風に寄せて
- II やがて秋‥‥
- III 小譚詩
- IV 眠りの誘ひ
- V 真冬の夜の雨に
- VI 失はれた夜に
- VII 溢れひたす闇に
- VIII 眠りのほとりに
- IX さまよひ
- X 朝やけ
[編集] 『優しき歌 I』
- 燕の歌
- うたふやうにゆつくりと‥‥薊の花のすきな子に
- I 憩らひ
- II 虹の輪
- III 窓下楽
- IV 薄 明
- V 民 謡
- 鳥啼くときに
- 甘たるく感傷的な歌ひとり林に‥‥
- I ひとり林に‥‥
- II 真冬のかたみに‥‥
- 浅き春に寄せて
[編集] 『優しき歌 II』
- 序の歌
- I 爽やかな五月に
- II 落葉林で
- III さびしき野辺
- IV 夢のあと
- V また落葉林で
- VI 朝に
- VII また昼に
- VIII 午後に
- IX 樹木の影に
- X 夢見たものは……