紙恭輔
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紙 恭輔(かみ きょうすけ、1902年9月3日 - 1981年3月24日)は、日本初の本格的ジャズプレーヤー。作曲家。日本のジャズ・軽音楽・映画音楽の草分け。広島県広島市大手町(現在の中区大手町)生まれ。
[編集] 生涯
広島高等師範附属中学(現在の広島大学附属高校)から第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に進む。在学中から山田耕筰が主宰し近衛秀麿が結成したクラシック楽団「新交響楽団」(のち日本交響楽団~NHK交響楽団)にコントラバスで参加。1920年代初頭は関西ではジャズが盛んだったが、まだ東京ではジャズは黎明期。六大学の学生達がアマチュア・バンドで始めたものをきっかけとして盛んとなっていったが、紙はクラッシック奏者でありながら草創期のジャズ界に身を投じた進歩的な音楽家で、サックス奏者としてそれらのバンドに加わったり、自らバンドを率いて、やがてわが国初の本格的ジャズマンとして知られるようになった。
1925年、NHK (JOAK) が本放送を開始。NHK嘱託の堀内敬三がジャズ番組を手がけ日本交響楽団内でジャズに精通した紙らが、この番組で生演奏するためバンドを結成した。紙らが演奏した曲で評判がよかったものがレコードとなった。また当時日本のジャズには歌はなかったが、ジャズ大衆化のため歌(ジャズソング)を入れる事になり、ここから日本のジャズ・シンガーの草分けといわれる二村定一や天野喜久代が売り出された。まだ流行歌というものが無い時代に大きなブームを呼んだ。コロムビア(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)で二村の大ヒット曲「青空」「アラビアの唄」のバックを務め、1929年、当時のコロムビア社長・H・ホワイトに薦められ同社専属バンド「コロムビア・ジャズ・バンド」の結成に参加し指揮者として同社の作品を次々と発表した。このバンドは日本ジャズ史に残る最高水準のジャズ・バンドだったらしい。
1930年初頭、南カリフォルニア大学に留学。二年後帰国して当時世界を風靡していたシンフォニック・ジャズ(クラシックのような交響楽団編成のジャズ)運動を起こした。ポール・ホワイトマン楽団のスペシャル・アレンジメントを「NHK交響楽団」の流れを組む「コロナ・オーケストラ」で指揮しJOAKで放送、大反響を呼んだ。1933年2月にはこの年から翌年にかけて日本ジャズ界を席巻した日系二世の歌姫・川畑文子の本邦初歌唱を指揮しラジオで放送した。この時のちPCL映画(写真化学研究所のち東宝)の代表者となる森岩雄が訳詞を手がけた名曲『三日月娘』などが歌われた。同年6月、日比谷公会堂でジョージ・ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』を指揮・紙、ピアノ・和田肇により本邦初演した。また「松竹歌劇団」の音楽監督を務め水の江滝子ら出演のショー・『タンゴ・ローザ』の音楽を担当し松竹歌劇史上最大のヒットととした。主題歌も大ヒット。
1年で松竹歌劇は辞め、国産トーキーが作られ始めたこの頃、PCL映画の代表者・森岩雄にジャズ風ミュージカルもこなせる専属オーケストラの結成を薦め、同社初代音楽部長に就任。同1933年には「コロナ・オーケストラ」から引っ張ったプレーヤーを中心に「PCLオーケストラ」を結成しポピュラー音楽やジャズにクラシックを音楽の手法を取り入れた映画音楽を次々発表した。PCL自主製作第一回作品で日本初の本格的音楽映画といわれる『ほろよひ人生』、成瀬巳喜男初のトーキー作品『乙女ごころ』、『エノケンの青春酔虎伝』などの音楽を手掛け日本の初期映画音楽を形作った。「コロナ・オーケストラ」は映画音楽吹き込みの他、帝国ホテルや日劇公演、ラジオ出演など幅広く活動した。また1936年には満鉄映画に招かれ記録映画『秘境熱河』の音楽を手掛けている。「コロナ・オーケストラ」は1937年東宝映画の発足で「東宝映画音楽部」となりのち「東宝交響楽団」となった。
東宝発足には参加せず1938年、松竹が新しく発足させた「松竹楽劇団」の楽長(総指揮者)に招かれた。「松竹楽劇団」は「松竹歌劇団」や「宝塚歌劇団」とは違い男女共演のショーチームで、当時松竹の翼下にあった帝国劇場を本拠に、これまでにない画期的なショーを作ろうという狙いがあった。副指揮者に中国慰問旅行帰りの服部良一を迎えた。この公演で大阪で売り出していた笠置シヅ子が東京デビューした。劇団は高い水準を誇ったが紙は約半年で退団し、その後は服部が後任を務め音楽ショーを中心とした意欲的な公演を続けた。その後時代的にジャズは排撃対象となっていったため、戦意高揚のための軍歌やクラシック管弦楽組曲の作曲を行い太平洋戦争中には軍の要請で対米英音楽謀略班を編成、海外放送でジャズを流したりした。戦時下の1942年に出した交響組曲『ボルネオ』、1944年の『木琴と管絃楽のための協奏曲』は代表曲とされる。
戦後1945年末、東京宝塚劇場は占領軍に接収されアーニー・パイル劇場となったが、1947年GHQの音楽監督となり、「アーニー・パイル劇場専属オーケストラ」を指揮。1950年代初頭には渡辺弘の「スターダスダーズ」や「渡辺晋とシックス・ジョーズ」らとともに空前のジャズブームを巻き起こした。その他、東海林太郎や灰田勝彦ら流行歌手の作曲・編曲・演奏、ラジオドラマやアニメーションの音楽や、1950年代半ばからは『透明人間』や『蜘蛛男』などSFやホラームービーの映画音楽も手掛けている。
1952年、宝塚劇場の返還でバンドは解散し名前だけ残した「アーニー・パイル・オーケストラ」を率いて米軍将校クラブに出演を続けたが台頭する新人ジャズメンに押され時代遅れとなった。この後は多くの役職に付いた。『日本ミュージシャンズ・ユニオン』の組織壊滅で、「バンドマンで一番頭が良い」とこれの再建を頼まれ新たに『日本音楽家連合会(日音連)』を発足して会長に就任。アメリカのユニオンと同様労働組合の形態の導入を図り、渡辺弘理事長らとNHKとのギャラ交渉、外人バンドを招聘するプロモーターとの交渉などで、長い年月会長職にあってミュージシャンの待遇改善に尽力したものの、ジャズマンでは珍しい東大法学部卒というエリート面、かつ権威好みの性格が嫌われ、また組合はアカだからイヤだという会員が多く周囲の協力を得られず、名ばかりの会長となって「ペーパー(紙)ユニオン」などと揶揄された。結局大きな成果は出ずに1970年頃には日音連は実働のない組織体となり、他のミュージシャン達が立ち上げた『日本音楽家労働組合』が、現在の『日本音楽家ユニオンオーケストラ協議会』として発展した。
しかしながら演奏家の著作権問題にも取り組み、『芸能人健康保険組合』理事長を務めるなど芸能界の向上に長年尽力した功績で藍綬褒章、1976年には勲四等旭日小綬章を受けている。1981年死去。享年78。
2005年、「東京フィルハーモニー交響楽団」が紙の楽曲を演奏するなど近年、再評価されている。
[編集] 参考文献
- 日本ジャズ史・戦前・戦後、内田晃一、スイング・ジャーナル社(1976年)
- ジャズで踊って、瀬川昌久、サイマル出版会(1983年)
[編集] 外部リンク
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