羽黒岩智一
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羽黒岩智一(はぐろいわ ともかず、1946年6月30日- )は、元大相撲力士で現年寄・雷。最高位は東小結。宮崎県延岡市出身。立浪部屋所属。本名の戸田で取っていた時期も長く、戸田当時に大鵬の連勝を止める金星を挙げていることもあって戸田智次郎の四股名も有名である。
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[編集] 来歴
1961年(昭和36年)5月場所、戸田の四股名で初土俵をふんだ。同期生には後の関脇藤ノ川武雄、幕内栃富士勝健らがいた。1965年11月場所、19歳で十両昇進。1967年(昭和42年)1月、20歳で入幕し、若手として期待された。当時は突き押し相撲を得意としていた。ちなみに、宮崎県出身の幕内力士は、1851年(嘉永4年)11月場所の友綱良助以来116年ぶりだという。
はじめのころは幕内下位にいた戸田が、1969年1月場所に11勝4敗で敢闘賞を受賞(結果的にこれが最初で最後の三賞受賞だった)し、翌3月場所に東前頭筆頭に昇進、はじめて上位陣とあたる場所に、横綱大鵬の連勝を阻止する大金星を挙げ、大きく脚光を浴びることとなった(後述)。
その後1971年(昭和46年)1月場所から羽黒岩と改名、幕内上位で安定して活躍したが、結局は小結1場所(1973年5月)にとどまったのは、肩を脱臼するくせがあり、それが相撲をだんだんと消極的にしていった。晩年は突き押しよりも、右四つに組んでの寄り相撲になり、激しい相撲は減っていった。それでも、約10年にわたって幕内を維持していたが、1977年7月、舛田山靖仁との対戦で負傷し、その影響もあって翌年1月、十両下位で大きく負けがこみ、場所中に引退を表明した。31歳だった。引退後は協会に残り、立浪部屋部屋所属の年寄・雷(いかずち)として後進の指導にあたっている。ただし、かつての雷が名乗った「権太夫」の下の名はひきつがず、「雷智次郎」の名で番付にのっている。
[編集] 大鵬の連勝を阻止
1969年(昭和44年)3月場所、円熟期を迎えていた横綱大鵬は、その前の1月場所終了時に2場所連続全勝、通算連勝も彼自身の最高、また戦後最高でもある44までのばしていた。それがどこまで伸びるかが場所前の焦点であった。
戸田と大鵬の取組は2日目に組まれた。戸田は立ち合いからぶちかまし、ノド輪攻めの後、両ハズで一気に土俵際まで大鵬を押し込んだ。当時大鵬の弱点として「序盤・平幕・押し相撲」ということがいわれ、それを3つともかねていた戸田には、番狂わせが期待されていた。しかし大鵬も、回り込みながら叩くと、戸田の右足が一瞬土俵の外にでて、蛇の目の砂をはいた。しかし次の瞬間、戸田は大鵬を押し出し、みずからも土俵の下につっこんでいった。行司の式守伊之助は、大鵬に軍配をあげたが、すぐに物言いがついた。審判長の春日野(元栃錦)審判部長は「戸田の足が出た」と言ったが、他の4人の審判委員全員がそれを見落としていたため、協議の結果、行司差し違えで戸田の勝ちとなり、大鵬の連勝は45で終わってしまった。戸田は大金星をあげた。
ところが、新聞やテレビの写真や映像には、戸田の右足が土俵を割った瞬間がとらえられていた。このことで、誤審だとする批判が大きく盛り上がった。この場所は、ほかにも琴櫻と海乃山勇との対戦でも疑惑の判定があったため、場所後相撲協会は、物言いがついたときの判定に、ビデオの映像を参考にすることを決めた(導入の準備はかねてからおこなわれていたようで、この場所もやろうと思えば可能だったという。そのために、間髪をいれずに導入を決定したという印象をあたえる結果にもなった)。
次の5月場所、先場所の負け越しで2枚目にさがった戸田は、4日目に横綱柏戸と対戦した。このときももつれた相撲になったが、ビデオの映像が参考にされて戸田は2つ目の金星をあげることが出来た。(これが最後の金星でもあった)その意味で、ビデオによる判定に深くかかわった力士であった。
[編集] 成績
- 幕内成績:385勝427敗13休
- 幕内在位:55場所
- 敢闘賞:1回
- 金星2個(大鵬1・柏戸1)