聖墳墓教会
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聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)とは、エルサレム旧市街にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。
東方正教会では復活教会(ギリシャ語Anastasis)とも称されている。東方正教会、アルメニア正教会等においてはエルサレム総主教座聖堂であり、中東地域の教会行政の中心でもある。
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[編集] 名称
[編集] 歴史
コンスタンティヌス1世は325年頃に、イエス・キリストの磔刑の場所、ゴルゴタ(マタイ27:33など)に教会を建てることを命じた。 遺骸がアリマタヤのヨセフらによっていったん葬られ、3日目に復活したという墓もその近くのはずであった(ヨハネ19:41-42)。
エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。 このため、30年ごろの出来事とされるイエス・キリストの磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。
伝えられているところによれば、コンスタンティヌスの母フラウィア・ユリア・ヘレナ(Helena of Constantinople}が326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地をゴルゴタと特定した。 これを取り壊し、建てられたのが現在の聖墳墓教会である。 ヘレナは磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物もこのときに発見したという。
この場所はエルサレムの旧城壁内にあるが、処刑場は城壁外にあったのではないか (『ヘブライ人への手紙』13:12)という疑念も出されている。聖墳墓教会とは別に、城壁外に「園の墓」(Garden Tomb)があり、聖公会などプロテスタントの一部教派に支持されている。
聖墳墓教会はイエス・キリスト三つの異なった聖地を三つに連結した教会であった。これはバシリカやアトリウム、"Anastasis"と呼ばれるロタンダを含んだ。このロタンダのドームは4世紀の終わりに完成した。
この建物は、ホスロー2世治下のサーサーン朝軍がエルサレムに侵攻し聖十字架を手にいれた614年に、火災によって損傷した。630年には、東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入り、教会を再建するために聖十字架を返還した。しかし、966年のある暴動の後、ドアや屋根が燃やされ、1009年10月18日には旧建物は完全に損壊してしまった。
ところが、厳しい状況の下コンスタンティノス9世モノマコスが1048年に小さな教会をこの地に建てた。再建されたこの土地は、1099年1月15日の第1回十字軍の騎士によって奪還された。第1回十字軍は武装した巡礼と見られ、十字軍は自分たちが聖墳墓教会で巡礼者として祈るまでずっと自分たちの遠征を考えることはなかった。十字軍の指導者であるゴドフロワ・ド・ブイヨンは彼の生涯で"king"という称号を使わないことを決め、彼自身を"Advocatus Sancti Sepulchri"、つまり「聖墳墓教会の守護者」と宣言した。編年史家William of Tyreは、12世紀半ば十字軍が教会をロマネスク様式で修築し鐘楼を加えたことを報告した。
[編集] 構造
教会に入ってすぐの場所は、イエス・キリストの身体が埋葬のために準備された場所であると信じられている石物である。
中央のドームにイエス・キリストが埋葬され3日後に復活を遂げたとされる「石墓」が存在する。
[編集] 行事
現在この教会はカトリック教会(カソリック教会)、英国国教会、プロテスタント、東方正教会、アルメニア教会(アルメニア正教会)、コプト正教会、シリア正教会の7つの宗派による共同管理となっており、一日中それぞれ何らかの宗派による「祈り(カトリック教会でいうミサ)」が行われている。 エチオピア正教会は正式な分教会として認められておらず、オスマントルコなどのイスラム教勢力が強かった時代に教会を守護し続けていたにも係わらず、正式なミサには参加出来ない。
[編集] 関連
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