脇坂安元
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脇坂 安元(わきざか やすもと、1584年4月14日(天正12年3月4日) - 1654年1月21日(承応2年12月3日))は、江戸時代初期の大名で脇坂安治の次男。名は初め「亨(とおる)」。通称甚太郎。兄がいたが、若くして病没したために嫡子となる。弟に脇坂安信、脇坂安方。従五位下淡路守。正室は石河光元の娘。嫡嗣子に下総国佐倉藩主堀田正盛の子安政。
なお、安元には実子(安経、安利ら)がいたにもかかわらず、当時将軍家光の信任が厚い堀田正盛の次男である安政を養子とすることを願い出て許されている。これにより、外様の小藩であった脇坂家は譜代大名となることができた。
[編集] 略歴
関ヶ原の戦いには父安治と出陣。戦後の佐和山城攻めにも加わり、大坂の陣でも先鋒として活躍する。その後、父の隠居に伴い家督を継ぐ。
伊予国大洲藩5万3千石から、信濃国飯田藩5万5千石に加増移封された。二代目安政と共に55年間に渡って飯田の城下町を整備し、飯田城の掘割を完成させ、街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くした。
後に朝鮮通信使の江戸接待役や下館城守衛などを務めるなど活躍した。承応2年(1653年)12月3日、70歳で死去した。法号:藤亭安元八雲院。墓所:京都市右京区花園の妙心寺隣花院。
[編集] 教養人
安元は武家第一の歌人といわれ八雲軒と号し、徳川秀忠の談伴衆でもあった教養人で、和漢書籍数千巻を蔵していた。「下館日記」「在昔抄」など著作も多い。林羅山から儒学を学び、逆に歌道を教えるという師弟関係でもあった。
安元の教養を知らしめる逸話として、家光の治世「寛永諸家系図伝」が編纂されるにあたり、戦国時代に成り上がった大名諸家が源平藤橘などと名門の出であると取り繕った系図を競うように作る中で、安元は「祖先は藤原氏であるらしい」ということだけしか判らなかったため、祖父脇坂安明からの短い系図のみを作り、冒頭に「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」という和歌をしたためて提出したという。
[編集] 関連リンク
- 脇坂氏
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