大洲藩
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大洲藩(おおずはん)は、伊予国(愛媛県)大洲(大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩庁は大洲城。支藩として新谷藩があった。
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[編集] 略史
江戸時代初期の大洲は藤堂高虎の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子である藤堂高吉が在城した。慶長13年(1608年)高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎預かりの地のままであった。
同年9月になり、淡路国洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入封し大洲藩が立藩した。2代安元は元和3年(1617年)信濃国飯田藩に転封となった。
同年、加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入封した。 元和9年(1623年)貞泰が跡目の届け出をしないまま急死し、嫡男の泰興が将軍に拝謁し相続を認められた。この際、弟の泰但(やすただ、後の直泰)は1万石分知の内諾を得て新谷藩が成立した。これが騒動のきっかけとなり寛永16年(1639年)まで内紛が続き藩内分知ということで決着した。
加藤家には好学の風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とした。初期の当藩より儒学者の中江藤樹が出ている。
大洲藩は勤王の気風が高く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していた。このため勤王藩として全国的に有名で、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでも小藩ながら活躍した。
明治4年(1871年)廃藩置県により大洲県となった。その後、宇和島県・神山県を経て愛媛県に編入された。 明治17年(1884年)加藤家は子爵となり華族に列した。
[編集] お城預かりと御替地
寛永11年(1634年)蒲生忠知急死により、嫡子のなかった松山藩のお城預かりをしたのが大洲城主、加藤泰興であった。その際、当時の松山藩領伊予郡、浮穴郡37ヶ村(約1万3千石)と大洲藩領だった風早郡桑村郡57ヶ村の替地を老中に願い出る。 寛永12年(1635年)替地の実現により、翌年(1636年)には上灘村から宮内兄弟(九右衛門、清兵衛)が入植。灘屋と号したため灘町(旧伊予郡郡中町(後の伊予市の中心部)の前身)と命名された。
[編集] 歴代藩主
[編集] 脇坂(わきさか)家
外様 5万3千石 (1608年~1617年)
[編集] 加藤(かとう)家
外様 6万石 (1617年~1871年)
- 貞泰(さだやす)〔従五位下、左衛門尉〕
- 泰興(やすおき)〔従五位下、出羽守〕
- 泰恒(やすつね)〔従五位下、遠江守〕
- 泰統(やすむね)〔従五位下、出羽守〕
- 泰温(やすあつ)〔従五位下、遠江守〕
- 泰衑(やすみち)〔従五位下、出羽守〕
- 泰武(やすたけ)〔従五位下、遠江守〕
- 泰行(やすゆき)〔従五位下、出羽守〕
- 泰候(やすとき)〔従五位下、遠江守〕
- 泰済(やすずみ)〔従五位下、遠江守〕
- 泰幹(やすもと)〔従五位下、遠江守〕
- 泰祉(やすとみ)〔従五位下、出羽守〕
- 泰秋(やすあき)〔従五位下、遠江守〕
[編集] 支藩
- 新谷藩
新谷藩(にいやはん)は大洲藩の支藩。藩庁として新谷(大洲市内)に陣屋が置かれた。
元和9年(1623年)大洲藩2代藩主・加藤泰興の弟・直泰は幕府より1万石分知の内諾を得て新谷藩が成立した。内紛の後、寛永16年(1639年)藩内分知ということで決着し、寛永19年(1642年)新谷に陣屋が完成した。藩内分知は本来は陪臣の扱いであるが、当藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。
寛永9年(1632年)中江藤樹は当藩に任地替えとなったが、母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩した。
江戸時代後期になると肱川の氾濫による水害や火災に見まわれ藩財政は困窮を極め、一時は大洲藩が藩政を執行した。明治初頭での実高は9,693石と表高の1万石を割り込んでいた。
明治4年(1871年)廃藩置県により新谷県となった。その後、宇和島県・神山県を経て愛媛県に編入された。 明治17年(1884年)加藤家は子爵となり華族に列した。
なお、陣屋は麟鳳閣として現存し愛媛県指定文化財となっている。
[編集] 歴代藩主
- 加藤(かとう)家
外様 1万石 (1623年~1871年)
- 直泰(なおやす)〔従五位下、織部正〕
- 泰觚(やすかど)〔従五位下、出雲守〕
- 泰貫(やすつら)〔従五位下、大蔵少輔〕
- 泰広(やすひろ)〔従五位下、織部正〕
- 泰宦(やすのぶ)〔従五位下、近江守〕
- 泰賢(やすまさ)〔従五位下、出雲守〕
- 泰儔(やすとも)〔従五位下、山城守、長門守〕
- 泰理(やすただ)〔従五位下、大蔵少輔〕
- 泰令(やすのり)〔従五位下、山城守、出雲守〕