腆支王
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腆支王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 전지왕 |
漢字: | 腆支王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
てんしおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チョンジワン |
ラテン文字転写: | Jeonji-wang |
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腆支王(てんしおう、生年不詳 - 420年)は百済の第18代の王(在位:405年 - 420年)であり、先代の阿莘王の長子。『梁書』では余映(余は百済王の姓)、『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。また、『翰苑』に引用される『宋書』『通典』では百済王夫餘腆と表記される。ただし汲古閣本『宋書』では余映とある。
目次 |
[編集] 即位まで
394年2月に太子に立てられた。高句麗に阿莘王が服属させられるという記録的大敗(396年)をした後、巻き返しを図るために倭国と修好する目的を持って、397年に人質として倭国に赴いた。405年9月に阿莘王が亡くなると、いったんは腆支王の次弟の訓解(くんかい、フンネ)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の碟礼(せつれい、ソルレ)が訓解を殺して自ら王となった。腆支王は倭国にいて阿莘王の死を聞いたときに、哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人は碟礼を殺して腆支王を迎え入れ、ここに即位がなった。[1]
[編集] 治世
407年には庶弟の余信、外戚の解須、解丘らを佐平(1等官)に置くなどして王を中心とした権限の集中化を図り、408年に初めて上佐平の官を設け、佐平の余信を当てて軍事・国政を統帥させることとなった。416年には東晋によって<使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王>に冊封された[2]。417年7月には東北辺で沙口城を築くなどして、再び高句麗への対抗の態勢を整えていった。
在位16年にして420年3月に死去した。
[編集] 脚注
- ^ 『日本書紀』においては人質としての倭国への赴任は応神天皇8年(277年→397年)、帰国については応神天皇16年(285年→405年)に対応する記事が見られる。
- ^ 420年に東晋に代わって宋が起こると、<鎮東大将軍>に進号された。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
- 『日本書紀』伴信友校訂 岸田吟香他 1883(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
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