自尊心
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自尊心(じそんしん)は自尊感情(じそんかんじょう)とも言い、自己の存在や在り様を尊重する(大切に思う)感情のこと。英語ではself-esteemという訳語が使われることが多い。いわゆるプライドや傲慢、自惚れ、驕りとは異なるものである。心理学的に非常に重要な研究対象になっている。
[編集] 概要
自己肯定感は人格形成や情緒の安定のためには重要であるという考え方もあり、自尊心はそのためには必要な感情であるとも言える。特に主体性や自信の形成においては、自尊心のない者は、自身を信用することができないため、自分自身の能力にすら懐疑的となってしまい、何もなすことができない。
自尊心の欠如は、時にセルフ・コントロールを失い、依存症や摂食障害などの精神障害を引き起こすことがある。特に、うつ病の患者は自尊心を失っていることが多く、欧米のうつ病治療では、投薬療法とカウンセリングによる患者の自尊心の回復が同時並行的に行われることが一般的である。(但し、第三者から患者に対する「過度の励まし」は患者の自尊心の回復させるものではなく、単なるプレッシャーを与えるだけで事態を悪化させることもあるので注意を要する。精神医学的な「自尊心」とは、ありのままの自分に誇りを持ち受け入れるということであり、世間一般でいう「向上心」や「上昇志向」とは異なる。)
日本語においてプライドという場合には、自惚れ(うぬぼれ)や傲慢につながる場合もあると考えられている。英語においても pride は、キリスト教における七つの大罪の一つであり、肯定的な意味として使われないことがある。また、自尊心という意味では、self-esteem といった語が当てられるのが一般的である。
国家的な自尊心は、ナショナリズムという。ナショナリズム(=民族主義)では、国家と云う単位の集団における総体的な自尊心であるが、個々の人から見れば周囲は賛同者のみとなるため、しばしば暴走しやすい傾向も見られ、これを忌避する人もいる。
[編集] 日本人論と自尊心
日本人論では、日本の文化の中に「和を尊ぶ精神」があるとされ、しばしば(過剰な)自尊心はその和(協調)を乱す物だと見なされる傾向がある。ただ、近年では和と妥協ないし同調が混同されたりする一方で、事なかれ主義に代表される和の弊害も指摘され、適度に自尊心を持つことが、個性の発達に有益だとする論調も見られる。
だが日本人が自尊心無き民族かというと、歴史的に必ずしもそうだとは言えず、江戸時代においても武士には武士の、町民には町民の矜持なり自尊心が存在した。現代でも様々なスタイルの自尊心が見られる。
自尊心は必ずしも和と相反せず、自分を信じるからこそ、他をも尊重できるという部分もある。これは自尊心が自分に無い長所を相手が持つことを、許せるかどうかという点にも絡む。自惚れている者には難しいところであるが、正しく自分を見据えることのできる人は、自尊心と和は競合しない。自尊心がある者は、自身の欠点ですら尊重できるという考え方もできる。
この辺りに関しては、自らに自信のない存在は、自身の欠点や短所にすら怖れを抱いて直面しようとしないが、自尊心のある者であれば、その欠点を克服できる自信も持てるという理屈である。一般に弱点を晒す人間は、自尊心が無いといわれることもあるが、必ずしもそうとばかりは言えない人も見られる。弱点を理由に身を引くか、弱点をさらしてなお留まるかは、大きな違いといえよう。
なお、日本ではかつて根性論のような苦境を敢えて選択する精神論がもてはやされた時代があったが、根性論自体の可否はともかくとして、他人に苦労を強いる際にこれを振り回す者もいる。根性論を自身を鍛えるために用いるのは当人の自由ではあるが、他人に苦労を強いるために用いるのはいささか問題がある。前者は自尊心があるからこそそのような選択をするのに対して、後者は苦労を強いる相手に自尊心を棄てるように求める部分が見られるためである。前者の例としてはプロスポーツ選手にしばしば見られる所ではあるが、後者の例は勝ち負けが重要視されがちなアマチュアスポーツ界(特に監督やコーチが絶対権力をもった指導的立場にあるもの)にしばしば見出すことが出来、過去にはそれによる熱中症事件も報じられている。