臼杵磨崖仏
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臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市深田にある4群60余体の磨崖仏である。「臼杵石仏(うすきせきぶつ)」の名で知られている。1952年(昭和27年)国の特別史跡に指定され、1995年には(平成7年)国宝に指定された(指定対象は59躯)。磨崖仏としては日本最初、彫刻としては九州初の国宝指定となった。
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[編集] 国宝指定の磨崖仏
国宝指定対象は59躯である。うち制作が優れ、比較的保存状態の良い27躯が本指定で、残余の32躯(*印)は「附(つけたり)」指定となっている。 国宝指定時の官報告示に基づき、漢数字をそのまま使用している。
[編集] ホキ石仏第一群(4龕25躯)
[編集] ホキ石仏第二群(2龕18躯)
[編集] 山王山石仏群(3躯)
- 如来及び両脇侍如来像 3躯
[編集] 古園石仏群(13躯)
- 大日如来及び諸尊像 13躯
[編集] 門前磨崖仏
国宝には指定されなかったが、国の特別史跡には含まれている。
- 多聞天像
- 不動明王立像
[編集] 由来
石仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。造像の経緯については民話・伝承により諸説あるが、臼杵市観光協会は民話「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」による、長者が亡くなった娘の菩提を弔うために彫らせたという説に基づいた観光アピールを行っている。
[編集] 歴史
仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。しかし、前述の伝説は敏達天皇~用明天皇在位期の話となっており、年代は大きく離れている。
山岳仏教の衰退と共に忘れ去られてしまった磨崖仏は1000年の風雨に曝され続けることとなった。元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり、石仏を削り取って行った。現在も多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。
劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落し、中でも、最も有名な古園石仏の大日如来像の仏頭は、1994年(平成6年)3月に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。修復にあたっては、元の姿に戻すべきという賛成派と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることで観光に影響が及ぶこと等を懸念する反対派の間で激しい論争が起きた。臼杵駅のプラットホームにある仏頭のレプリカは修復前に作られたもので、仏頭が足下に置かれていた時期の状態をよく表している。一方、駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。
なお、V字型の谷になっていた周辺の地形は、保存修復工事の際、石仏が彫られていない方の壁が切り崩されて麓の里まで水を止めるものがなくなり、また、石仏の周囲には排水設備が導入されたため、現在は石仏の下に水流ができるということはない。
[編集] 年中行事
- 石仏火祭り
- 8月最終土曜日
- 約1000本の松明に照らされた石仏が幻想的に浮かぶ。西日本最大の火祭りと言われる。
- 年越し供養法要
- 12月31日
- 石仏群前に焚かれた篝火と約600本の松明の中で行う法要。「いかづち太鼓」の音で新年を迎える。
[編集] 周辺の史跡
- 真名野長者夫妻石像
- 石仏を彫らせたという伝説の長者。室町時代の作。
- 満月寺
- 石仏を彫った人物とされる蓮城法師が創建したと伝えられている寺。
- 仁王像
- 満月寺境内にあり、膝下が地面に埋没している。昔、この仁王像の鼻を削って飲むと鼻の病気が治るといった言われがあり、このため像の鼻は完全に無くなってしまっている。
- 宝篋印塔(日吉塔)・石造五重塔
- 満月寺境内にある石塔。宝篋印塔は国の重要文化財、五重塔は臼杵市指定文化財。
- 少し離れた場所に計3基の五輪塔がある。いずれもそれぞれ1つの石を削って五輪塔全体を刻み出した珍しい様式である。山王山石仏横の急な山道を上った所にある。
- 日吉神社境内近くにある石塔。大部分が地中に埋没しているため、正確な高さは不明。大分県指定有形文化財。
- 上記の場所から更に数百メートル奥にある大小2基の石塔。大きい方は嘉応2年(1170年)、小さい方は承安2年(1172年)の銘があり、日本で最も古い五輪塔の1つと言われている。国の重要文化財。
- 大鳥居
- 満月寺境内にある日吉社の鳥居。室町時代の建立とされる。名前は大鳥居であるが、標準的な神社のものと比べても小さい部類に入る。大分県指定有形文化財。