芥川文
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芥川 文(あくたがわ ふみ 1900年7月8日 - 1968年9月11日)は作家芥川龍之介の未亡人。旧姓塚本。俳優芥川比呂志(長男)と作曲家芥川也寸志(三男)の母。次男芥川多加志は父龍之介に似て最も文学志向が強かったが、第二次世界大戦で戦死した。
[編集] 来歴・人物
海軍少佐塚本善五郎の娘。1904年、旅順港近海で父が戦死。このため母の実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友芥川龍之介と知り合う。芥川の送った彼女への恋文は有名。
1916年12月、龍之介と縁談契約書を交わす。1918年2月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚。龍之介の横須賀海軍学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活を送る。
龍之介の作品には『子供の病気』(『局外』1923年8月)、『死後』(『改造』1925年9月)、『年末の一日』(『新潮』1926年1月)、『身のまはり』(『サンデー毎日』1926年1月)、『本所両国』(『東京日日新聞』夕刊、1927年5月6日 - 1927年5月22日)、『蜃気楼』(『婦人公論』1927年3月)、『或阿呆の一生』(『改造』1927年10月)、『歯車』(『文藝春秋』1927年10月)、『鵠沼雑記』(遺稿)に登場している。
1927年7月24日、龍之介が服毒自殺。1941年、三男也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払ってピアノの購入費に充てた。
1945年4月13日、学徒兵として出征していた次男多加志がビルマのヤメセン地区で戦死。
1968年9月11日、調布市入間町の三男也寸志邸にて心筋梗塞のため死去。
死後、1975年、筑摩書房から『追想芥川龍之介』(中野妙子筆録)が刊行された。