芥川比呂志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。
東京都北区田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐塚本善五郎の娘文。母方の祖父・塚本善五郎は1904年に日露戦争で戦死している。
[編集] 来歴・人物
名の由来は龍之介の親友、菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。三人兄弟で、次弟・多加志は第二次世界大戦で戦死、末弟・也寸志は作曲家。同じように多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。
1926年、東京高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)に入学。1932年、同中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中からシングや岸田國士の戯曲を読み、15歳のとき『お察しください』(A Comedy)と題する戯曲を桐陰会雑誌に発表。学芸会では『ヴェニスの商人』や武者小路実篤の芝居を演じる。
1937年、慶應義塾大学予科に入学。1939年、同予科から文学部仏文科に進学。女優長岡輝子や劇作家加藤道夫たちと新演劇研究会を結成し、学生演劇活動を始める。その傍ら、鈴木亨主宰の詩誌『山の樹』の同人となり、畔柳茂夫や沖廣一郎という筆名で詩や翻訳を発表。このころ、堀田善衛、中村眞一郎、白井浩司、福永武彦、加藤周一、白井健三郎、小山正孝たちと知り合う。当時、東急東横線の通学電車の車内で、女優姉妹のジョーン・フォンテーンとオリヴィア・デ・ハヴィランド(当時東京に住んでいた)にたびたび乗り合わせたという。演劇活動の傍ら、佐佐木茂索の配慮により、嘱託として短期間文藝春秋社に勤務。
太平洋戦争勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、群馬県前橋市の陸軍予備士官学校(赤城隊)に入る。敗戦時は陸軍中尉として、滋賀県御園村の神崎部隊、三谷隊にいた。
1947年、女優・長岡輝子、加藤とその妻で女優の加藤治子らと共に「麦の会」を結成。1949年に「麦の会」は文学座に合流し、以来、文学座の中心俳優として、または加藤道夫作「なよたけ」などの演出家として大成する。特に1955年の『ハムレット』の主演は、今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博す。貴公子ハムレットの異名を持った。
舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも数多く出演。1963年、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁らと共に文学座を脱退し、かつて『ハムレット』の演出を手掛けた福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動する。1966年にはNHK大河ドラマ『源義経』で、源頼朝を演じた。俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年、『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、『海神別荘』の演出で芸術祭優秀賞を受賞。
やがて、盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立。1975年には仲谷、岸田、神山、中村伸郎らと雲を離脱し、「演劇集団 円」を創立して代表に就任した。しかし、若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、期待された「円」での仕事は、1978年の『夜叉ヶ池』の演出のみに留まった。
1981年10月28日、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61。俳優として、また演出家として早過ぎる演劇人生であった。