苻堅
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苻堅(ふけん、Fú Jiān、338年 - 385年)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝。(在位:357年 - 385年)。廟号は世祖。宣昭帝。または天王とも。字は永固、または文玉とも。苻洪の孫で、魏王・苻雄(字は元才)の嫡子。生母は荀氏。
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生涯
若き日
幼少時から智勇兼備の天才であったため、祖父の苻洪から将来を嘱望されていた。第2代皇帝で従兄で隻眼でもあった苻生が暴政を行なって乱行を繰り返したため、これに不満を持つ一派から異母兄の苻法と共に支持を受けて暴君の符生を殺し、兄が辞退したために生母の勧めもあって彼が第3代皇帝として即位したのである。後に兄の苻法は素質が弟以上で人望もあったために、かえって苻堅の生母の荀氏に危険視されて、結局は殺害されたという。この時、苻堅は20歳前後で尊敬した兄の非業の死に号泣して血の涙を流したという。
隆盛期
即位後は漢族の有力貴族、さらに名宰相でもあり名将でもあった王猛の補佐を受けて儒学による教育の普及、戸籍制度の確立、農業の奨励、街道整備など内政に大いなる力を発揮した。軍事面においても王猛に軍権を与えて370年に前燕を、376年に前涼をそれぞれ滅ぼして勢力を拡大した。そして、この勢力拡大を背景にして華南制圧を企んだが、王猛の急死によりこれを延期せざるを得なくなった。そして383年、100万(実質的には50万)を号する大軍を率いて弟の苻融と共に南下した。だが、淝水の戦いで東晋のかつての晋将の朱序の裏切りと、謝安により派遣された謝石・謝玄らの率いる東晋軍に大敗してしまう。苻堅は苻融と共に国士として優遇した慕容垂の軍勢に護衛されて、命からがら長安に逃げ帰った。だが、このことで国内では慕容沖による西燕、姚萇による後秦が謀反を起こして、独立するなどで、前秦の勢力は大いに衰退する。
悲惨な末路
ついに385年の秋7月、反乱を起こした慕容沖に大敗した苻堅一家は五將山で羌族の姚萇に捕らえられて、新平県の仏寺に幽閉されて禅譲を迫られるが、彼はこれを拒否したために、翌8月に姚萇によって縊り殺されたのであった。享年48。
後世の評価
苻堅は有能な人物だったが、軍事においては名将・王猛によるところの成功が大きく、彼自身は軍事面では秀でていたのかどうかに疑問が残る。ちなみに前秦は彼の死後も続いたが、実質的には苻堅の死をもって滅亡したのであった。
宗室
伯父
- 苻健
- 苻双
(父・苻雄は末弟である)
兄弟
従兄弟
(苻洪の長男の子)
(苻健の子)
甥(従子(“いとこ”の子)も含む)
(兄・苻法の子)
- 苻陽(東海公)
- 苻敷(清河公)
(従兄・苻洛の子)
(従兄・苻敞の子)
息子
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