藤原誠信
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藤原 誠信(ふじわら の さねのぶ、康保元年(964年) - 長保3年9月3日(1001年9月27日)は、平安時代中期の公卿。太政大臣藤原為光の長男。母は藤原敦敏の女。従三位、参議、左衛門督。
幼少時には、7歳で『李キョウ(山へんに喬)百二十詠』という詩集を暗証する等の物覚えの良さを見せ、父の為光も彼の為に、当時の有名な文人源為憲に貴族の幼童用の教科書『口遊』の編纂を依頼したり、あるいは永延2年に異母兄の摂政藤原兼家に懇願を重ねて参議に就任させたりと、大いに将来を期待していた(なお、この際に為光が、誠信の競争相手の小野宮流の藤原実資の悪口を兼家に吹聴してた事が、「小右記」に記されている)。
しかし、長ずるにつれ、父同様に政治能力に欠けてる事が明らかになり、その上酒席での失態も多かった為に、切れ者の同母弟の斉信に比して人望を失っていった。長保3年、欠員ができた中納言に昇格を望み、あらかじめ斉信に対し自分を出し抜かぬよう言い含めるが、誠信の能力に不信を抱く藤原道長の後押しを受けた斉信が結局は中納言に就任した。
このことにより誠信は、道長と斉信を深く恨み、憤激・絶食の末に病を得て没した。『大鏡』の描写によればその有様は、握り締めた手の指が手の甲を突き破るほど凄まじいものであったという。