藤山寛美
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藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日-1990年5月21日)は、大阪府大阪市西区出身の喜劇役者。女優の藤山直美は娘。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。
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[編集] 芸風
永年、松竹新喜劇のスターとして活躍。阿呆役を演じれば天下一品で、「あほの寛ちゃん」として人気を博した。「桂春団治」の酒屋の小僧などは絶品である。
[編集] 来歴・生涯
[編集] 華々しくデビュー
1929年(昭和4年)、関西新派「成美団」の俳優・藤山秋美の末の息子として生まれる。母は新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミ。父の病没した1933年(昭和8年)、花柳章太郎の命名で父の藤山を継承し「藤山寛美」として4歳で初舞台に立つ。関西新派の都築文男に師事し、13歳で松竹家庭劇に移るまで師弟間系にあった。 以後は各劇団を転々とし、1947年に曽我廼家十吾、師匠格に当たる渋谷天外 (2代目)、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。寛美をかわいがった天外が脳出血で倒れた後は実質的座長となった。観客によるリクエスト狂言の上演など、アイデアマンとして知られ、代表作は「鼻の六兵衛」「宝の入船」など。
[編集] 型破りな金使いの荒さ・松竹新喜劇解雇
俳優の子という出自ゆえ、「俳優」「芸人」としての姿勢を私生活でも徹底し、初代桂春團治と後の横山やすしの様に金使いも荒かった。「遊ばん芸人は花が無うなる」という母親の一家言を守り、夜の町を金に糸目をつけず豪遊した。バーのボーイに「チップとして」車のキーを渡し、自動車一台をあげたこともあった。そのため、多額の負債(知人に騙された巨額の負債もあった)を抱え、1966年には当時の金額で1億8000万円の負債を抱えて自己破産。これを契機に松竹と松竹芸能は彼を解雇。彼は舞台に立たず、知己のつてを頼り東映任侠映画で鶴田浩二らの助演で生活をしのいだ。余談だが、解雇通告したのが、当時松竹の常務を兼任し、先代の松竹芸能社長であった勝忠男である。(横山やすしが金使いが荒かったのも春團治と寛美の魅力に惚れたからであろう。後にやしきたかじんも寛美から魅力を教わる事になる。)
寛美が自己破産と松竹新喜劇を解雇された事を知った天外は寛美に「アホ!借金なんか作りよって!」と一喝した。(事実上、その時点で寛美は「破門」の烙印を押されたが、復帰後は烙印は消えている。)
後輩芸人への面倒見が良かった寛美は、彼らの借金を立て替えることもしばしばで、特に自らがまだ多額の借金を抱えている最中に月亭八方の1000万円の借金をキャッシュで立て替えて払った話はあまりにも有名である。[1]
[編集] 新喜劇復帰
解雇後ミヤコ蝶々と南都雄二を迎えての新「松竹新喜劇」は寛美がいた時期ほど客足がのびず、師匠の渋谷天外 (2代目)も脳出血で倒れた事もあって、ついに松竹は寛美の負債を立て替えて、再び舞台に呼び込んだのである。
寛美の復帰に松竹新喜劇は大いに沸き、往時の人気を回復し、彼の人気を見せ付ける形になった。
地方からの観客を舞台裏に招待することも多く、彼の残した色紙には大きく『夢』と言う文字が書かれることも多かった。
知人に騙された巨額の負債について、「アホをやっておりますが、わてのアホはどうやら本物らしゅうおます」と言い、恨み言一つも言わなかった。その負債も復帰によって完済し、大物ぶりを示す結果となった。
20年間にわたり一日も休まず舞台に立ち続けたという逸話も残っている。ちなみに、上記の借金は19年目に完済された。
[編集] 晩年
1990年の年明け頃から体に異変が起こる。3月に体の不調を訴えて検査入院、肝硬変と診断される。舞台に復帰したいと言う願いもむなしく同年5月21日に死去。亡くなる直前には上岡龍太郎主催の劇団「変化座」の演出・プロデュースを藤山寛美が担当することとなっており、寛美の顔写真が出演者とともに写っている宣伝ポスターまで作成されていたが、上演直前に亡くなったため陽の目を見ることがなくなってしまった(同舞台は藤山寛美追悼公演として上演された)。また、亡くなる3日前に「中座」に行きたいと言い出し、妻と共に夜遅くに「中座」へ行ったと言うエピソードがある。
死去の際、桂米朝は「一番残念なのは後継者を育てなかった事」と悔やみ、上岡龍太郎は「大阪の文化が滅びる」と嘆き、立川談志は「通天閣が無くなったようだ。」と偲んだ。 またダウンタウンの松本人志は著書の中で「この人は素で面白い人なのではなく、面白い人を演じる事の天才なのだ」と評した。
[編集] 死後
寛美の三女の藤山直美が喜劇女優として寛美の芸を受け継ぎ、舞台で「鼻のおろく」(「鼻の六兵衛」のリメイク作品)など寛美の代表作を演目にしたこともある。
一方で上方喜劇を残そうと考えていた藤山寛美は、1981年(昭和56年)に弟子を曾我廼家玉太呂、曾我廼家八十吉として曾我廼家の名跡を襲名させており、今後彼らの活躍が待たれる。
[編集] 出演したテレビ番組
- 親バカ小バカ (1959年)
- 藤山寛美 3600秒 (1975年)
- 藤山寛美 阿呆陀羅劇場 (1980年)
- 藤山寛美 4500秒 (1980年)
[編集] 著書
- あほやなあ 喜劇役者の悲しい人生(1967年)
- あほかいな 藤山寛美半生談義(1976年)
- 凡談愚言(1978年)
- 対談集 人の世は情けの貸し借り(1984年)
- みち草・わき道・しぐれ道(1985年)