やしきたかじん
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やしきたかじん | ||
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基本情報 | ||
本名 | 家鋪隆仁 | |
愛称 | じんちゃん、たかじん | |
生年月日 | 1949年10月5日 | |
血液型 | O型 | |
学歴 | 龍谷大学経済学部中退 | |
出身地 | 大阪府大阪市西成区 | |
ジャンル | J-POP | |
職業 | シンガーソングライター タレント |
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活動期間 | 1971年~ | |
レーベル | 京都レコード(1971年) キングベルウッド(1976年~1978年) キングレコード(1979年~1982年) ビクター音楽産業(1983年~1991年) ポリスターTAKAJINレーベル(1992年~) |
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事務所 | P.I.S | |
共同作業者 | 及川眠子 |
やしき たかじん(1949年10月5日 - )は、主に関西で活動する歌手、タレント。
大阪市西成区出身(現在は西区在住)。本名は家鋪 隆仁(読みは芸名と同じ)。血液型O型。主に関西ローカルのテレビ番組に出演している。愛称は「じんちゃん」「たかじん」など。
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)およびS.I.Pの代表取締役、また、P.I.S音楽出版代表取締役、テレビ番組制作会社株式会社エックスワンの取締役を務めている。
目次 |
[編集] 人物・経歴
たかじんという名前は、本名「隆仁」を命名する際、お寺に依頼されたものからきている。そのときの名前が「隆仁(たかひと)」であったのだが、父親である権三郎は極右思想であり「天皇陛下の『仁(ひと)』を使うとは何事だ、あの生臭坊主が」と激怒し、後先考えずに「仁」の読みを「ひと」から「じん」に変え、「隆仁(たかじん)」と命名したことによる。
2006年4月では、持病の腰痛(ヘルニア)の治療のためレーザー手術を行う。 さらに、歯の治療や喉のポリープの治療も行った。歯の治療に関しては、主に、表面を削った上で抗菌パネルを張る事でワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにして、奥歯にインプラントを入れた。
片目に白内障を患っていたが、手術を行った事を2006年9月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、本人が明らかにしている(収録2日前の9月6日に手術したと述べている)。術後はスタジオが明るくて爽快と言っていることから、術後の容態は順調であると推測される。
[編集] デビューまで
桃山学院高校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院高校卒業後、同大学経済学部に内部進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住む。
その後、龍谷大学経済学部へ入学するも、これも中退。 同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行なうようになる。 当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけて暴れていたため、次々にクビになったという。
[編集] 歌手活動
1971年に京都レコードから『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ頽廃的との理由で程なく発売禁止となる。
1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。チケットには、後援のニッポンレンタカーの文字がたかじんの文字より大きく入っていた。観客のほとんどがホステスで、コンサートの終盤にはホステスの出勤時間のため観客が著しく減ったらしい。その後1976年に、キングベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。
1977年に宝塚史上初のリサイタル(「私の肖像画」)を鳳蘭がやるということで、宝塚が初めて外部の力を導入する試みを行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。たかじんに白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』(作詩:荒木十章 作曲:やしきたかじん)は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』(作詩:及川眠子 作曲:やしきたかじん)を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。
さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詩:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で生涯最大の汚点と語っている。またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる。ちなみに、これを機に猪俣とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになる。
1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』(作詩:荒木十章 作曲:やしきたかじん)というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。
1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ『セイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。作詞家デビューする前に、相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していた。一方、秋元は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と言っている)。のちに、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話している。お笑いコンビとんねるずが売り出される頃から、秋元との関係に乱れが生じた感が見える。また、この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌「明星」に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていた。
前述の秋元のコメントの通りたかじんの歌詞へのこだわりが強く、エピソードにもこと欠かない。かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化から持ち込まれた『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!(康自身は静岡の出身で大阪のことは実は詳しくない)」と自身の曲として歌うことを断っている。そのため、この曲は大上留利子の持ち歌となって世に出た 。
1981年には谷村新司が作詞作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作)の主題歌『砂の十字架』が13万枚のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードはレコードを出す条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、あまりにも常軌を逸した歌詞と、ジャケットに自分の写真でなくガンダムのイラストが描かれていたため、たかじんがクレームをつけて発売が延期となったものの、結局そのまま発売されることになる。こうして無理矢理歌わされた曲がヒットしたため、今日でも、これまた人生の汚点だとして番組などでネタとして話している。カップリングの「スターチルドレン」は、ロックバンドアニメタルによって、ヘヴィメタル風にカバーされる。
1982年に大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなり、1986年に『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集め大ヒットする。さらにこれが「大阪の歌手」として絶大な人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』が関西でヒット、関西色を前面に出したバラードシンガーとして関西に根付いてゆくことになる。また『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会い、以降ビクターに在籍中、二人三脚で楽曲を製作し、現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった。
この当時(1980年代半ば以降)、ラジオ番組(『ウィークエンド・イングス』『ハローナショナルショールーム』など)で泰葉と共演し、海老名家公認で結婚寸前にまで発展した親密な仲となる。また、根岸の実家に頻繁に出入りしたこともあった。そのためか、母・海老名香葉子から林家こぶ平(現:正蔵)を預かってくれるように懇願される。その後、しばらくこぶ平はたかじんのところに住み込みするようになり、たかじんのかばん持ちをする。実質たかじんの弟子入りのような形になった。
1992年にポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスターに移籍してからの作詩は、ほとんどを及川眠子が担当している。
この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。なおコンサートでは2時間40分から3時間強の内大半(約6割)がトークに費やされ、歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌っている。歌の間に3~4箇所2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがあり、トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないのも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることもしばしば)。観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われる程。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2, 3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストで円広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。
「シンガーソングコメディアン」の異名をとるスターダスト・レビューの根本要が「(コンサート全体に占める)トークの割合はだいたい25%が我々で、30%がさだまさしさん、40%が松山千春さん、50%を超える(実際は60~65%程度)ようなお方はやしきたかじんさんしかいらっしゃらないでしょう」と言うように、トークにかけては、歌手のトークではなく、トップクラスの芸人のトークであり、トッププロのMCからですらも賞賛されている。上岡龍太郎は、たかじんのコンサートを「あれは独演会や」と言っている。たかじんのコンサートがこのようなスタイルになったのは、ヒット曲が全くなかった頃どのようにすれば満員になるか試行錯誤した結果、喋りを磨くしかないと結論付けたからだと本人は話している。
コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。また、客席をまともに見るのが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。
普段の喋るときのだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも違うため、関西地方以外で時々たかじんが歌手であることが疑われることがある。関西では「鈴虫の声を持ったゴキブリ」などといわれることもあった。また、上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言った。
本業の歌手としては、1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業しており、2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで活動を再開し、2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは待望の活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降コンサートツアーは休んでいる。CDも2003年10月の『冬のソナタ』のカヴァー曲で2004年にNHKで放送された冬のソナタ(日本語吹き替え版)の挿入歌・主題歌となる『My memory/最初から今まで』以来シングルリリースしていない。この曲は関西テレビ『たかじん胸いっぱい』エンディングテーマだった。
歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退)を受賞。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。
一時期桂春蝶や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め、喋りや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、六代目笑福亭松鶴や藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、また、桂米朝には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことからお笑い第三世代以降の芸人を芸人と認めていない点もあり、若手に対して厳しい一面もあるが、飲みに行く際には、喫煙、飲酒をさせない程であり、「売れるまで、やり続けなさい」とアドバイスをしたことがある。とはいえ、ロンドンブーツ1号2号、品川庄司、タカアンドトシなどに太鼓判を押したことがある。
1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演。「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなる。
2003年『やっぱ好きやねん』がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている『やっぱ好きやねん』『生まれる前から好きやった』『なめとんか』『大阪恋物語』『あんた』)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進しているのも相まって関西で15万枚の売り上げを記録。
過去に一度離婚していて、再婚した妻もたかじんの傍若無人ぶりに耐え切れず失踪する。あまりプライベートを語らないが、20代前半で別れた前妻(故人)との間に一女がいる。
- たかじんバンド
初期の「フライング・リバティー」<Pf/Key:土井淳(バンマス) G:近藤芳弘 B:奥田勝彦(後に細木隆広→小笹了水) Dr:五十川清(後に浅川ジュン)の4人構成で、後に、Key:森俊之(後に鈴木賢) Sax/Flute:河田健(後にエレファント酒井)らが参加>に始まり、現在の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋~1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。
歌手としての魅力をもつ一方、放送禁止用語や放送局の出入り禁止や名誉毀損も恐れないストレートな発言で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせてきた。現在もその関西における高視聴率ぶりは変わらない。
デビュー以降、数々のラジオのレギュラー番組を持ったが、1985年にABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行っていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ『ABCエキスタ』での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌フライデーが取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介された。
朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。「聞けば」は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ『サタデーたかじん ~午後はイッキに~』のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組『ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務める。
[編集] 東京進出
1988年、朝日放送(ABCテレビ)午後のワイドショー『晴れ時々たかじん』に出演(1988年~1992年)、彼の人気を決定づけた。この時に既存の主婦向けのワイドショーとは、一線を画した企画を自ら提案。政治・経済などにも注目し(月曜:政治経済 火曜:ミニドキュメント 水曜:テレビ大人電話相談室 木曜:対談 金曜:輝け花の金妻たち)新しいスタイルを確立する。結果、昼の2時台にもかかわらず番組当初2%にも満たなかった視聴率が平均13%を超える(最高は20%を超える)にまでなった。たかじん自身が歌うオープニングテーマ『晴れときどきTAKAJIN(なめとんかC/W)』がこの番組の名物となる。この番組で指し棒、マジックを使った彼の「パネル芸」という新しいスタイルを確立させる。特に人気があった、政治・経済では「なめとったらあかんど」「文句あるんやったらかかってこい」という台詞が口癖のようになり、政治家や役人・官僚に対しては生放送にもかかわらず放送禁止用語や名誉毀損ものの誰彼かまわず容赦ない毒舌を浴びせかけ、指し棒を折りまくる傾向が強かった。このパネルと指し棒を使ったスタイルは以後、雨後の筍の如く様々な番組で見られるようになる。
1時間番組の収録で指し棒を最低3本は折っており、常に数十本のストックを備えている。また近年はあまりやらないが太い差し棒に差し替える事もある。 1992年、当時関西ローカルで放送されていた、土曜日深夜の『たかじんnoばぁ~』(よみうりテレビ)にビートたけしがゲスト出演したことで、共演のトミーズ雅と共に彼の存在が全国で注目を浴びるようになる。この番組はセットがバーであり、ゲストと共に酒を飲んでヘベレケの状態で、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークの面白さが評判を呼び、キー局の日本テレビでも放送されるようになる。また、たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12~1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%以上を超え(関西地区)、よみうりテレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する快挙も達成した。
1992年10月より、東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に降板。これ以降は、関西ローカルで数本のレギュラーを持ちながら、コンサート活動を続けている。また1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。
「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている一方、様々な番組スタイルのパイオニア的存在でもある(指し棒を使ったパネル芸やバー形式のトーク番組など、枚挙に暇がない)。そのため、たかじんがあみだしたスタイル(アイデア)や企画をそのまま他番組が真似ることも多々ある(特に東京キー局に多い)。
[編集] 『胸いっぱい』から現在
1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。さらに1998年には『たかじんONEMAN』(毎日放送)が始まる。この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっている。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っている。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に複数のビデオデッキ(最近では1テラ【1Gの1000倍】のHDDデッキを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェックしていて以来続いている、彼のネタのひとつである。
これまで芸能関連の企画が多かったが、2002年、特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』で政治・経済などの時事問題をテーマにした番組を放送。2003年にはレギュラー化される。そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増した。理由について本人は「老後のため」とギャグで交わしているようである。
また、テレビでもなかなか歌わないことで有名なたかじんだが、2004年12月、フジテレビ、細木数子の『幸せって何だっけ~カズカズの宝話~』に出演。東京キー局の番組で23年ぶり(23年前にTBSの『ホリデー』で『Too Young』、『Fly me to the moon』、『It's a sin to tell a lie』といったジャズをサングラスにパンチパーマのタキシード姿で熱唱して以来)に歌を歌った(曲目は『東京』『やっぱ好きやねん』)。「東京」を歌っている時、極度の緊張から、マイクを持つ手が異様に震えており(ライブではいつものことである)、その後のトークで細木に突っ込まれている。また番組レギュラー出演者の一人、ネプチューンの堀内健に「お台場とか(に来るのは)初めてですか?」と問い掛けられると「初めて」と答え、更に「海あんねんね、前に」と照れながら答えた(なお、この出演も、本人は出演したくなかったが、細木の執拗なまでの電話攻勢で銀座に渋々出向くと、そこに細木とフジテレビの首脳陣が待ち構えており、細木の仕掛けた接待の罠にかかり、「あかん、罠にはめられた。もう断られへん」と悟り渋々出演を承諾した経緯がある)。
[編集] 出演を放棄
1992年、たかじんがテレビ朝日の深夜番組『M10』(マグニチュードテン)に出演したときに、番組エンディングの所謂「料理コーナー」で、蒟蒻(こんにゃく)ステーキを作っていたのだが、スタジオに「味の素がない」という理由でプロデューサーやディレクターやアシスタントディレクター、さらには助手を務めていた服部料理学校の生徒を「どこじゃー!!」と連呼しながら、自暴自棄の状態で殴り、スタジオのセットを次々に破壊する事件があった。その直後、番組に出演していたトミーズ雅が「味の素を入れたとしましょう」と、軌道修正を図るコメントをしたところさらに怒り、最終的には「こんな腐った番組辞めたらぁ」と生本番中に帰ってしまった。(後日、彼は別の番組で『ファックスで再三打ち合わせしたにもかかわらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた』と話している)しかし、放送中に「味の素ないのか!」と連呼したため、味の素本社から大量の味の素が送られ、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに味の素が置かれた。一方、番組にはたかじんの暴挙に対する批判の声が殺到し、同時に彼の東京嫌いが決定的なものとなり、基本的にキー局や一部の地方局製作の番組に出演することは無くなった。そのため、『たかじんのそこまで言って委員会』や『たかじん胸いっぱい』などの冠番組の東京キー局や一部の地方局からの全国ネットの案件を門前払いし、徹底拒否している。なお、言うまでもないが、この「事件」はテレビ番組の制作現場の事情に起因して発生したもので、味の素には一切責任がない。
ちなみにこの一件で1994年に『料理バンザイ!』に中条きよしとともにゲスト出演するまで、テレビ朝日に出入り禁止となっていた。
[編集] 東京(東日本)ではほとんど仕事をしない
東京嫌いのため島田紳助や明石家さんまとは反対に、めったなことがない限り東京(東日本)や地方局では仕事をしない。そのため、関西以外の地域での知名度は低い。まれに関西以外の局の番組に出演することもあるが、ほとんどがローカル番組で全国ネットの番組での出演は年に1回あるかないかである(2006年現在、強いて出演するとしたら、紳助やさんま司会のバラエティ番組程度である)。加えて昨今は生放送番組にはあまり出演せず、『すてきな出逢い いい朝8時』2001年9月22日放送のゲスト出演は珍しいと言える。しかし、『ムハハnoたかじん』はニュース性の高い番組のため、一時期生放送を行っていた時期があり、2005年11月20日には『やしきたかじんが宮崎でタイガーに生で密着! たかじんINダンロップフェニックス』(『ダンロップフェニックストーナメント』(毎日放送)の関西ローカル・放送時間10:00~11:24)では特別ゲストでリポーターとして出演した。紳助や、さんまなどの関西芸人の大半は、東京(東日本)のやり方を肯定し、たかじんのやり方大阪(西日本)を半ば否定をすることもある。
かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、『たかじんのそこまで言って委員会』(よみうりテレビ)はキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじん自身の猛反対で在京キー局(関東)ではネットされていない(全国ネットではない)現状である(『たかじん胸いっぱい』に関しては、2007年現在では神奈川県のtvk、埼玉県のテレ玉、群馬県の群馬テレビといった独立UHF局でネットされ、アンテナを立てたりケーブルテレビなどを介して東京でも観られる場合があるので、独立UHF局については強い反対はしていない模様だ)。
なお、東京の番組に出演しないのは1992年10月より半年間、たかじんが東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持った際の番組スタッフとの確執が決定的な理由とされる(それ以前にも東京のテレビに出演した際に、利権やしがらみのために制約が多いことや、すぐ掌をかえす体質や極端に横柄な態度に激怒し、収録途中で幾度も帰っている)。この時たかじんは、自分のやり方を否定する東京キー局や地方局のルールが気に入らず、プロデューサーやディレクターを殴り、恫喝し、時には土下座させ、ついには生本番中に帰るなどのトラブルを起こした(味の素事件に代表されるように数々の暴力沙汰を起こした)。
東京キー局や地方局でも普段通り機関銃の如く喋っているが、東京キー局や一部の地方局では到底放送できないことが多すぎるため、オンエアではすべてカットとなっている。このことについてたかじんは常に不満を述べており、時には収録中にクレームをつけトラブルを起こすこともある。関西(西日本)と関東(東日本)でたかじんの印象が違うのはこのためである(本音を重んじ過激さを追求する在阪局と抗議や圧力を恐れ過剰な編集をする在京局や東日本の地方局との違いである)。このような事から、在阪局制作のレギュラー番組でも基本的にたかじんは東京キー局へのネットを断っている。実際、1998年3月の『たかじんnoどォ!』(よみうりテレビ)の視聴率低迷による打ち切り以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立UHF局を除き放送されていない。
そして、あまりのストレスからノイローゼになり、東京のラジオの生本番中に倒れて救急車で運ばれるということもあった。上記の通り、たかじんが出演する番組は1998年以降、関東の独立UHF局や東日本の地方局の一部でしか放送されていないのもあって首都圏やたかじんの番組が放送されていない県での知名度は余り無い。首都圏や東日本では『たかじん・ナオコのシャベタリーノ!』のような番組を望んでいるが、たかじん自身は関西色丸出しの毒舌連発のトークを売りした番組としているため、放送されていない。また、静岡県ではたかじんの番組の放送を望む視聴者が多いが、未だに放送されていない。最近は北海道、宮城県、秋田県、中国、四国、九州等でもたかじんの番組が放送されており、特に中京圏では現在出演中の番組のうちの3番組を放送している。そのため関東以外での知名度は上がっている。加えて、関東地方などの一部の東日本ではたかじんが在京キー局や一部の地方局に番組を流させない(さらに在京キー局や一部の地方局側も関西の番組自体あまり流さない)ため、一時期関東(特に東京)などでたかじんは死んだのではないかと死亡説が流れた事さえもある。現在でも、普段のレギュラー番組で東京キー局や東京(関東などの東日本)、一部の地方局に関するものを、放送禁止用語が飛び交う内容で容赦なく批判している。関西色を前面に出し、毒舌を連発するたかじんのやり方は東京(関東などの東日本)の人間には敬遠され受け入れられないため、たかじん自身にとって東京(関東などの東日本)との相性は水と油である。特にここ近年は以前より東京(関東などの東日本)嫌いがひどくなくなってきているようだが、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されている。
とはいえ、東京のテレビ局や一部の地方局の首脳はたかじんの態度を快く思っていない。代表的なのがフジテレビ会長の日枝久。『たかじん胸いっぱい』の人権侵害事件や『発掘!あるある大事典II』の捏造事件を庇いだてなく報じていた所にたかじんへの反感が垣間見えたほどである(日枝(や一部の地方局)は関西テレビ社長の千草宗一郎と不仲。また、千草の同期の上沼真平とは犬猿の仲でもある(妻の上沼恵美子も同様)。千草はたかじんと親しい)。
ただ、それ以上にたかじんは東京キー局や一部の地方局の首脳を「気違い」「アホの頂点」と非難している。
[編集] NHK(公共放送)ではほとんど仕事をしない
歌手デビュー時のオーディションで、NHKへの悪口を連発した挙句に、NHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったことがあり、それを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」「キチガイ集団」などの批判もあり、それゆえにNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」「さっさと潰れろ」「民営化しろ」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にある。「紅白歌合戦」に関しては年末年始の特番で特大パネルを用いて徹底的に酷評するのは定番と化しているほどである(ただし最近は減少傾向に至っている)。NHK側も「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定している。
さらに、NHK大阪ホールのこけら落しの歌番組の出演依頼されるも「誰が糞NHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもあり、それを自慢話にしている(但し、『プロジェクトX』に対しては太鼓判を押したほどである)。受信料を払っていないのは言うまでもないが、義務化の話になると困り果ててしまう。
余談だが放送禁止用語を羅列してまでNHKを批判したことで江戸笑芸の啓蒙者であるタレント永六輔の怒りに触れ結果両者は敵対関係になってしまった。永は江戸笑芸を必ず放送するNHKを大切にしましょうと呼びかけていてたかじんを「罵倒してまで江戸笑芸(や東日本の文化)を否定する存在」として憤慨してしまったとの事。永六輔が関西の民放で一部の例外を除き仕事をしないのはたかじんへの報復という説がある。
[編集] 名誉毀損裁判
- 2005年10月18日深夜に放送したバラエティー番組『たかじんONEMAN』で、離婚した堀ちえみの元夫について「別れるときは大変やった。最高裁までいった」「男が絶対別れへん言うた」などと発言したことで、2006年1月に元夫が、事実と違う発言により名誉を傷つけられたとして、たかじんと番組を放送した毎日放送に、計2200万円の損害賠償を求めて提訴した。
- その以前にも、2005年関西テレビ『たかじん胸いっぱい』での発言で、杉田かおるの元夫鮎川純太の名誉毀損で人権侵害と認定され、人権委員会(BPO)から最も重い勧告処分を受けている。
- このようなきつい勧告をうけていてもたかじん本人が反省しないため、同じトラブルが繰り返されている。
[編集] エピソード
- たかじんの弟は現在中学校校長をやっており、たかじんのテレビでのハチャメチャぶりに「お兄さん、あまり滅茶苦茶なことしないでください」と、その立場もあり何度も懇願しているという。だが、たかじんは、その発言については、あまり気に入らないようだ。
- 祇園の弾き語り時代、お金がなく笑福亭鶴瓶とともに、四条河原町で食べ物を求めさまよっていた。ホームレスの人に不二家の店の前にあるゴミ箱にあったシュークリームを分けてもらおうと、ジャンケンでたかじんが行くことになったのだが、ホームレスに無視され続け、最後にたかじんを一瞥して「兄ちゃん、素人が食ったら腹壊すで」と言われ断られたという。
- 元アリスのメンバーで歌手の堀内孝雄とは、桃山学院高校の時の同級生である。ちなみにたかじんが新聞部部長、堀内が軽音楽部部長であった。また「べーやん」「やしき」と呼び合う仲。20代後半の頃、売れない歌手を続けていたたかじんは当時生活していた東京で堀内と再会する。「いまアリスやってるねん」と近況を話した堀内に対して、まさか同級生が当時売り出し中のグループのメンバーだとは思いもしなかったたかじんは堀内がアダルト向け書籍(所謂ビニホン)のアリス出版で働いているものと勘違いし、「お前ええ歳してもう少し真面目な仕事せんかぁ!!」と説教をした。
- 大相撲の大阪場所で数多くの幕内力士と飲みに行ったが、たかじんと飲みに行った力士全員が一人の例外もなく全員怪我で休場に追い込まれるという事態になり、相撲協会がたかじんに力士との接触の自粛要請をするという異例の事態に発展した。このことに自分の番組でネタにし「俺が何悪い事したんじゃ」とぼやいていた(過去に貴闘力を引き連れて一晩で400件以上はしご酒をしたこともある。また、暴走族をはしご酒に巻き込んだこともある)。
- 京都会館のコンサートで、ステージ上にはたばこと水割りを用意させ、水割りがなくなるとボーイが取りに行くというもので、そういう状況で当時全く無名でヒット曲が皆無であったたかじんは延々と喋り続けた(1ネタ40分程度)。客席はホステスばっかりで香水の匂いが相当きつかったという。半ばエンドレスの状況であったため、ついに演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、たかじんは京都会館を数年間出入り禁止になってしまった。
- 1980年代、まだ留守番電話が普及していない頃に高価な機材(15万円位するヤマハのポーターサウンド)を買い(大阪で売っていなかったためわざわざ名古屋まで買いに行ったという)、自作のメッセージを作っていた。自作メッセージには朝用・昼用・夜用とあり、夜用は映画『ジョーズ』のテーマ曲を使用していた。しかし、メッセージを変えるため朝・昼・夜と自宅に帰らなければならず、「こんなもんやってられへん」とやめてしまった。
- かつて(1987年)、徳島文化センターでコンサートを行った際、演奏に入る前に「お客さん、今から歌いますけどその後の話はとっておきの大ネタですから聞き逃したら一生後悔しまっせ。トイレ行くなら歌の間に行ってください」とたかじん本人は冗談のつもりで言ったのだが、いざ5曲目の『My Friend』の演奏が始まると、一斉に観客が立ってトイレに行きだしたという逸話がある(コンサートを観ていた大阪遠征組のファンはこの観客に対して激怒したという)。
- 元・南海ホークスの熱狂的なファンで、ホークス関係で取材を受けたり、ホークスがダイエーに身売りされる際も、反対の署名に参加しており、南海ホークスにまつわるレコード「南海ファンやもん」(歌:アンタチャブル)をプロデュースする。ちなみに、ダイエーに身売りされてからはファンをやめている。子供の頃は、「ジュニアホークス」に所属していた。
- 前妻が急死してすぐのコンサートで『あんた』を歌っている最中に泣き崩れて立ち上がれずに歌えなかった(『あんた』はたかじんと前妻との想いをベースに作られており、たかじんの最も思い入れのある曲のひとつである。そのため、たかじんがレコーディング中に何度も泣き崩れてなかなか歌えなかったり、コンサートでは1994年のシアタードラマシティのコンサートのラストで歌って以来封印されており、次に歌うのは最後のコンサートのラストの曲とまで言い切っている)。
- 大阪・八尾市にある旭食品が製造している「旭ポンズ」をテレビ・ラジオで絶賛したのがきっかけで、関西で大ヒット商品となり、たかじんが火付け役となって多くの著名人にも愛用されるようになった。他にも、通販の商品などたかじんが取り上げた商品はすべて注文が殺到し生産が追いつかない事態になっている。
- ネットショッピングに関するブログを持っており、2006年6月12日の『たかじんONEMAN』の番組内で以前、雪江ハム(本社・千葉県千葉市)に本名の家鋪隆仁で注文を出したところ、たかじんからの注文であることを解読され、察知された。
- 2003年に『たかじんONEMAN』の「たかじんのザ・ご対面ショー」というコーナーに尾崎亜美が出演した際「僕はもう、尾崎亜美しか歌わない」とまで豪語していたが、やはりたかじんのこだわりの強さからか気に入った作品がなく、結局断った。
- 『たかじんONEMAN』で2003年の長者番付(関西版)にてTOP10に入っていたとき、「長者番付けでTOP10入ったろ思て、去年(2002年)本気で歌やったんや」と言っていた。因みに北野誠の証言によれば、ディナーショーを開催するかに至っては、年末前に、たかじんの飲み代を事務所で計算して、今年は厳しいと判断したら行うらしい。
- ディナーショーで『サン・トワ・マミー』を歌ったとき、客席一人一人に握手しながら歌っていったため、曲が終わる前にステージに戻れそうになかったため、走りながら「♪サン・トワ・マミー♪」と急いでステージに戻ったことがあるらしい。
- 過去には女性誌に女優の藤山直美と結婚以上の仲であると報道されたことがある。特番等で藤山との共演も多く、プライベートでも12時間以上の長電話をしたり、電話口で10曲以上も唄うなど、現在でもふたりの相性が抜群によいことが伺われる。NHK嫌いのたかじんも、藤山が出演する連続ドラマ『芋たこなんきん』については自身の番組で「どうぞよろしくお願いします」と(観覧客に向かって)言っているが、藤山の体格が良いことから「芋ブタなんきん」と本人の前でネタにもしていた(テレビ大阪の特番「たかじんプロデュース」にて)。
- 『やっぱ好きやねん』のデモテープを聴いたとき不自然な関西弁に違和感を感じたという。これは、作家の鹿紋太郎が東京の人間であるためで、鹿本人が大阪の文化が大好きで作った曲である。「やっぱ」は関東弁で、関西弁で正式には「やっぱり好きやねん」である。しかし、「歌詞がメロディーにのらないこと」と、「女性の一途な気持ちややり切れなさを歌いたいのであって、関西弁の歌を歌うのが目標ではない」ということで最終的にたかじんが関西関東合同弁でいこうと決めたという。
- 『ICHIZU』を製作する際、最初は「ナニワ・トワイライト」というタイトルであったのだが、たかじんが「今回は関西色を避けたい」「ナニワ・トワイライトでは売れそうなタイトルではない」と作家の鹿紋太郎に全面的に歌詞の変更を要求し『ICHIZU』が完成した。
- 『なめとんか』を製作する際、たかじんが作家の鹿紋太郎に「いつもついていく女ばかりやから、開き直る女の立場で歌を作ってくれへんかなぁ」とリクエストして出来た曲である。しかし、この歌詞があまりに強烈であったため、鹿がこれ以上インパクトのある歌詞を書けずスランプに陥り、「もうこれ以上書けません。許してください」とたかじんに言ったという。『なめとんか』以降、たかじんは鹿の作品を歌うことはなくなった。
- 大阪・梅田にある阪急東通りの暴力バーに入り、ビール小瓶2本を注文し、その勘定が6万円程度に激怒し、「お前とこ暴力バーやろ。1本15万は取れるはずやろが。暴力バーが生半可なことすんなドアホ!!」と一喝した上で説教を始め、最後に30万円払って帰った。
- 東京・赤坂で暴力団の人間数人に「たかじん、お前ただ酒飲めてええのう」と言われ、これに激怒したたかじんはその暴力団の男をハシゴ酒に同行させたところ、暴力団の男たちは数軒目でたかじんの目を盗んで逃げ出した。その店のホステスに「たかじんはわしらよりタチが悪い」と言っていたという。
- プリンスホテルのディナーショーで従来どおりのディナーショーしか出来ないという理由で、キャンセルするもホテル側が違約金600万を要求した。これにたかじんが「上等やないか」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。これにホテル側が慌て対応策を出し、かろうじてディナーショーを開催することができた(他にも、ホテルプラザでボーイの態度が気に入らないとの理由でディナーショーをキャンセルしたことがある)。
- 北新地の本通りでストリートライブを見ていたたかじんが「下手じゃ」とストリートミュージシャンを殴り、ギターを取り上げ、ストリートライブを始めだした。それからしばらくして、偶然金村義明が通りかかったのを見つけると「金村こっち来んかい」と呼びつけ、「お前も金を出せ」と1万円を出させた。その後たかじんと金村でたかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』のサビの部分を10分ほど延々と歌っていた(たかじんが泥酔していたためサビの部分しか思い出せなかったという)。最終的にチップが20万円くらい集まったという。
- たかじんの発売禁止になった幻のデビュー曲『娼婦和子』を最初に購入したのは元朝日放送アナウンサー林伸一郎である。ちなみに林は龍谷大学放送部でたかじんと同期であり、学生運動のときに放送部を守るためにたかじんが放送部員全員に結束を呼びかけたが、実際集まったのはたかじんと林だけであったため計画を断念した。
- ほとんど関西でしか仕事をしていないとはいえ、その影響力は大きいとされる。特に関西では絶大で、在阪各局の首脳陣と深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる事がある。中でも宮根誠司がフリーになったのも、たかじんがABC社長の西村嘉郎に直談判をした事がきっかけである(現在、諸事情のためABCでの番組レギュラーを持たないが、(詳細については晴れ時々たかじんを参照)たかじんにとって西村とは個人的な親交がある)。一方で毒舌や短気な性格は上岡龍太郎や横山やすしに似ていて、ついには裁判沙汰・警察沙汰になるというケースも生じているのである。
- 一度たかじんの番組でゲストに出演した芸能人の中には、たかじん自身が気に入らない芸能人として、二度と共演させてはならないブラックリストを掲載させ、その芸能人とは共演させないようにしている。その影響から、たかじんが共演したいタレントから拒否されて、たかじん自身が後悔する面もある。東京キー局やNHKのアナウンサー(現在・過去を問わない)もブラックリストに掲載させている。
- 自身の性格の改善、嫌いなものの克服、手品やスポーツ中継(野球を除く)を大いに嫌う。特にスポーツ中継では応援するアイドルを起用することに対して、「東京のテレビ局や一部の地方局は、アイドルに無駄な仕事をやらせる」などと不満を述べることが多い。
[編集] 現在の出演番組
- たかじん胸いっぱい(関西テレビ、土曜12:00~13:00・1994年1月放送開始)
- たかじんONE MAN(毎日放送テレビ、火曜23:55~0:55・1998年4月放送開始)
- たかじんのそこまで言って委員会(ytv、日曜13:30~15:00・2003年7月放送開始)
- ムハハnoたかじん(関西テレビ、金曜19:29~19:57・2004年10月放送開始)
現在、NHK・朝日放送のテレビ・ラジオ番組や他局のラジオ番組はレギュラーを持っていない。
自らが司会を務めるようになってから、『晴れ時々たかじん』以後は番組の終了は放送局が決めるのではなく、自らが「辞める」と言って終了するとしている。現在は様々な事情が絡み合い、「辞めたくても辞められない」と発言しているが、2007年1月14日放送分の『そこまで言って委員会』で、「2007年は(自身の)レギュラーが1本増えて、1本減る」と発言している。また『そこまで言って委員会』は、三宅久之が亡くなった時点で番組終了と公言している。
[編集] 過去の出演番組(ゲスト出演も含む)
[編集] テレビ
- 11PM(よみうりテレビ)
- サムシング・ナウ(TBSテレビ)
- ホリデー(TBSテレビ)
- ヤングおー!おー!(毎日放送)
- ワイドショーWHO「男の井戸端会議」(関西テレビ)
- 今夜もうしみつ族(テレビ大阪)
- 歓楽街行進曲(毎日放送)
- ほっとタイム10時です(関西テレビ)
- YOUごはんまだ?(ABCテレビ)
- お昼だドン(テレビ大阪)
- BK芸能チャンネル(NHK)
- 世界のちっちゃな国シリーズ(関西テレビ)
- アップダウンクイズ(毎日放送)
- たかじんミュージックランド(毎日放送)
- あどりぶランド(毎日放送)
- たかじんの明日パラHOUSE(中京テレビ)
- たかじん・円の二人は怪しいミュージシャン(ABCテレビ)
- たかじん・円の興奮宣言(関西テレビ)
- ノックは無用!(関西テレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)
- 浪花座ごきげんライブ(ABCテレビ)
- 夜はオンリー・ユー(ABCテレビ)
- ナイトinナイト(ABCテレビ)
- ニュース・ウェーブ(ABCテレビ)
- 晴れ時々たかじん(ABCテレビ)
- M10(テレビ朝日)
- テレビ近未来研究所(TBSテレビ系)
- どんまい!!スポーツ&ワイド木曜日(よみうりテレビ系)
- 新伍のわがまま大好き(ABCテレビ系)
- たかじんnoばあ~(よみうりテレビ)
- 新・たかじんが来るぞ(毎日放送)
- たかじん・ナオコのシャベタリーノ!(毎日放送・TBS系)
- いい朝8時(毎日放送・TBS系)
- たかじんnoどォ!(よみうりテレビ)
- Beアップル2時!(よみうりテレビ)
- さんまのまんま(関西テレビ)
- 恋のから騒ぎ(日本テレビ)
- 幸せって何だっけ~カズカズの宝話~(フジテレビ)
- 開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)
- やしきたかじんプロデュース(やっぱ。OSAKA)(テレビ大阪) 他
[編集] ラジオ
- ビアンカ・ミュージック・シティー(MBSラジオ)
- 日本列島ズバリ・リクエスト(近畿放送ラジオ)
- ハンド・イン・ハンド・ミッドナイトパーティー(MBSラジオ)
- キング・ポップス専科(ABCラジオ)
- 電撃わいど・ウルトラ放送局(ラジオ関東)
- ザ・ミュージック・タウン(東北放送)
- パックインミュージック(TBSラジオ)
- セイ!ヤング(文化放送)
- ウィークエンド・イングス(MBSラジオ)
- 電話大好きKYU-KAN-CHO(MBSラジオ)
- 土曜おはようワイド・文珍のおもしろラジオ(ABCラジオ)
- 昼めし歌謡曲(ABCラジオ)
- MBSヤングタウン火曜日(MBSラジオ)*担当時期は1981年4月~1983年3月
- 日産ポップ対歌謡曲(ABCラジオ)
- ハロー!ナショナルショールーム(MBSラジオ)
- ハイヤングKYOTO(KBS京都)
- それ行け!火曜やしきたかじん(MBSラジオ)
- 聞けば効くほどやしきたかじん(ABCラジオ)
- たかじん・円のオールナイトニッポン(ニッポン放送)*1987年2月11日放送
- サタデーたかじん~午後は一気に(ABCラジオ)
- たかじんのぶっつけ本番(ABCラジオ)
- そこまで言うか!やしきたかじんの熱血!正義の60分(ニッポン放送)*1992年10月~1993年3月
- たかじん生JIN JIN(毎日放送ラジオ)
- たかじんの風に吹かれて(RKB毎日放送他)
[編集] ディスコグラフィー
[編集] 代表曲
- 明日になれば
- あんた
- やっぱ好きやねん
- ICHIZU
- 未練~STILL~
- 大阪恋物語
- なめとんか
- 泣いてもいいか
- 東京
- さよならが言えるまで
- My memory
- 心はいつも
[編集] シングル
1971年 | 娼婦和子/さよならの言葉 | EP | 京都レコード | 即日発売禁止 | |
1st | 1976年10月21日 | ゆめいらんかね/流れ者 | EP | キングベルウッド | デビューシングル |
2nd | 1977年7月21日 | 君はどこへ/ほんの昔 | EP | キングベルウッド | |
3rd | 1977年10月21日 | 焼けた道/けもの道 | EP | キングベルウッド | ドラマ「新・木枯らし紋次郎」主題歌 |
4th | 1978年12月5日 | ながばなし/近頃の人生 | EP | キングベルウッド | 大阪大衆音楽祭グランプリ受賞曲 |
5th | 1980年1月20日 | 明日になれば/今さら・・ | EP | キングレコード | |
6th | 1980年10月21日 | Walking on/明日になれば | EP | キングレコード | テレビ朝日「柳生あばれ旅」主題歌 |
7th | 1981年2月21日 | 砂の十字架/スターチルドレン | EP | キングレコード | 劇場版機動戦士ガンダム主題歌 2006年11月22日にオリジナルカラオケ付きで再発売 |
8th | 1981年6月5日 | かりそめのパートナー/スマイル・アゲイン | EP | キングレコード | |
9th | 1981年12月5日 | 横顔/ルームナンバー301 | EP | キングレコード | |
10th | 1982年5月21日 | 愛の時代に/さよならの落としもの | EP | キングレコード | 愛の時代に・CM「アリナミンC」イメージソング さよならの落としもの・NHKドラマ「大阪ドンキホーテ物語」主題歌 |
11th | 1983年11月5日 | ラヴ・イズ・オーヴァー/ハーバー・ライト | EP | ビクター音楽産業 | |
12th | 1984年5月21日 | あんた/愛したあとからメランコリー | EP | ビクター音楽産業 | |
13th | 1986年9月21日 | やっぱ好きやねん/Yume Irankane(Remix.Ver) | EP | ビクター音楽産業 | |
14th | 1987年8月1日 | ICHIZU/思い出オン・ザ・ロック | EP | ビクター音楽産業 | 発売当時B面はやっぱ好きやねん(カセットシングルのみ) |
15th | 1988年3月21日 | 未練~STILL~/カウント・ダウン | EP・8cmCD | ビクター音楽産業 | |
16th | 1988年11月1日 | 愛することを学ぶのに/順子 | EP・8cmCD | ビクター音楽産業 | |
17th | 1989年4月21日 | 大阪恋物語/ひとり覚え | EP | ビクター音楽産業 | 販促用 |
18th | 1990年11月21日 | なめとんか/晴れときどきTAKAJIN | 8cmCD | ビクター音楽産業 | 晴れときどきTAKAJIN・朝日放送「晴れ時々たかじん」オープニングテーマ曲 |
19th | 1992年4月25日 | 泣いてもいいか/いっぱいの酒 | 8cmCD | ポリスター | |
20th | 1993年3月25日 | 東京/夢の雫 | 8cmCD | ポリスター | 全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲 |
21st | 1993年6月25日 | さよならが言えるまで/見えない糸 | 8cmCD | ポリスター | 見えない糸・MBS骨髄移植啓発キャンペーン曲 |
22nd | 1994年3月25日 | 優しい女には毒がある/はぐれた背中 | 8cmCD | ポリスター | はぐれた背中・関西テレビ「たかじん胸いっぱい」エンディング主題歌 |
23rd | 1994年11月26日 | 泣いたら負け/いいがかり | 8cmCD | ポリスター | 毎日放送「たかじん・ナオコのシャベタリーノ」エンディング主題歌 |
24th | 1996年3月25日 | もしも夢が叶うならば/思い出よりこの瞬間 | 8cmCD | ポリスター | |
25th | 1996年11月25日 | ICHIZU'96/明日になれば'96 | 8cmCD | ポリスター | |
26th | 1997年7月9日 | 惚れた弱み/待ってあげて | 8cmCD | ポリスター | |
27th | 1998年6月24日 | 想い出にて/まだ夏は終わらない | 8cmCD | ポリスター | |
28th | 2003年10月24日 | My memory/最初から今まで | 12cmCD | ポリスター |
カセットシングルについては省略
[編集] アルバム
[編集] オリジナルアルバム
- 「TAKAJIN」(1976年10月21日)
- 「愛しのガール」(1977年9月2日)
- 「明日になれば」(1980年1月21日)
- 「プロフィール」(1981年12月5日)
- 「CATCH ME」(1984年5月21日)
- 「For You~やっぱ好きやねん~」(1986年10月21日)
- 「ICHIZU」(1987年10月5日)
- 「The Vocal」(1989年4月21日)
- 「泣いてもいいか」(1992年9月26日)
- 「Mood-夢見る男のために-」(1993年7月25日)
- 「egoism-天国はまだ待ってくれる-」(1994年8月25日)
- 「JINX」(1996年4月25日)
- 「PROCESS」(1997年9月10日)
- 惚れた弱み
- 笑うしかないさ
- 愛と打算とプライドと
- 最後のネクタイ
- 待ってあげて
- アバウト
- 最後だけ私のために
- おまえの男なんだ
- 黄昏のベンチ
- Process for Love
[編集] ベストアルバム
- 「TAKAJIN DO MY BEST」(1996年7月25日)
- ICHIZU'96
- 泣いてもいいか
- 未練~STILL~'96
- なめとんか'96
- さよならが言えるまで
- 心はいつも
- 大阪恋物語'96
- 東京
- やっぱ好きやねん'96
- エゴイズム
- あんた'96
- 夢見る男のために
- 明日になれば'96
- もしも夢が叶うならば
- 「TAKAJIN SINGLE COLLECTION」(1998年9月2日)
- 東京
- 惚れた弱み
- 未練~STILL~'96
- ICHIZU'96
- 泣いてもいいか
- 優しい女には毒がある
- 想い出にて
- 泣いたら負け
- 明日になれば'96
- なめとんか'96
- やっぱ好きやねん'96
- もしも夢が叶うならば
- さよならが言えるまで
- 「YASHIKI TAKAJIN ANTHOLOGY」(2001年12月5日)
- ゆめいらんかね
- 過ぎゆく暮し
- ミナの物語
- 秋の手紙
- この椅子で
- 横顔
- ながばなし
- 空車(ムナグルマ)
- ラスト・ショー
- My Friend
- Too far away
- 気楽トンボ
- 順子
- 生まれる前から好きやった
- ひとり覚え
- 歌って死ねるなら
- 愛することを学ぶのに
- 雨の日はバラードで
- やっぱ好きやねん'96
- ICHIZU'96
- 未練~STILL~'96
- 東京
- あんた'96
- 明日になれば'96
- なめとんか'96
- 大阪恋物語'96
- さよならが言えるまで
- たった独りのアンコール
- そんな女
- 幸せをもう一度
- 「TAKAJIN THE BEST~My memory~」(2003年12月10日)
- 未練―STILL― '96
- My memory
- ICHIZU '96
- なめとんか '96
- 最初から今まで
- 心はいつも
- 大阪恋物語 '96
- やっぱ好きやねん '96
- エゴイズム
- あんた '96
- 東京
- 明日になれば '96
- 最後のネクタイ
- もしも夢が叶うならば
[編集] ライブアルバム
- 「わが輩は歌手である~たかじんソング&トークライブ~」(1988年3月21日)
- 「YASHIKI TAKAJIN 50 YEARS OLD ANNIVERSARY SPECIAL CONCERT」(2000年1月29日)
- 男に生まれてきたかった
- 街をはなれて
- 未練~STILL~
- 泣いたら負け
- 泣いてもいいか
- 愛することを学ぶのに
- エゴイズム
- ICHIZU
- 最後のネクタイ
- 大阪恋物語
- 東京
- たった独りのアンコール
- TAKAJIN HISTORY(大ネタトーク)
- さよならが言えるまで
[編集] その他CD/レコード・出版物等
- 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち
- 南海ファンやもん(プロデュース)
- くるダス
[編集] 著書
- たかじんが来るぞ!(1992年10月、ベストセラーズ、ISBN 9784584008195)
- たかじん胸いっぱい(1993年6月、ベストセラーズ、ISBN 9784584008492)
- たかじん旅たび失礼(1995年5月、ベストセラーズ、ISBN 9784584009451)
[編集] DVD
- 「YASHIKI TAKAJIN 50 YEARS OLD ANNIVERSARY SPECIAL CONCERT」(2003/11/26 ビクターエンタテインメント)
- 「たかじんのそこまで言って委員会 SPECIAL EDITION I」(2006/06/26 よみうりテレビ)
[編集] 主な仲の良い有名人
- 星野仙一
- 藤山直美
- 松山千春
- 細木数子
- 桂三枝
- 桂ざこば
- 桂南光
- 桂雀々
- 太平サブロー
- オール阪神・巨人
- ビートたけし
- 上岡龍太郎
- 掛布雅之
- 笑福亭鶴瓶
- 板東英二
- 杉田かおる
- 黒沢年雄
- 金村義明
- 井上公造
- 秋元康
- 桑名正博
- リリアン
- 三宅久之※三宅がこの世を去った場合、「そこまで言って委員会」を終了する事を公言。
- 橋下徹
- 角淳一
- 宮根誠司
- 梅田淳
- 北野誠
- 清原和博
- 佐々木恭介
[編集] 関連項目
- 山口智充(DonDokoDon) - 現在の全国放送で、たかじんのモノマネをやり続けている一人であり、そのモノマネで、東京、NHKを好む様な発言を繰り返しているが、たかじんは承知している。
- はなわ - 持ち歌の『佐賀県』という曲の中で、「大阪といえば、やしきたかじんの大阪」と歌っている。
- 大阪市立春日出中学校 - 2006年度より、たかじんの弟が校長を務めている。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 修正依頼 | 出典を必要とする記事 | 日本の歌手 | 日本のタレント | ローカルタレント | 1949年生 | 大阪府出身の人物 | 馬主 | 日本のシンガーソングライター