賀龍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
賀龍(がりゅう、1896年3月22日 - 1969年6月9日)は、中国共産党の軍人。中華人民共和国建国の功労者。中華人民共和国元帥。
目次 |
[編集] 略歴
- 1896年3月22日 湖南省桑植県(現在の張家界市)に生まれる
- 1914年 孫文の革命運動に参加
- 1918年 湖南靖国軍営長
- 1922年 中国国民党四川作戦参加
- 1926年 北伐軍第20軍軍長
- 1927年8月1日 南昌起義総指揮
- 1927年9月 共産党入党(党歴の開始)
- 1935年 長征に参加
- 1937年 八路軍120師長
- 1950年 西南軍区司令
- 1969年6月9日死去
- 1982年 名誉回復
[編集] 少年期
賀龍は貧農の生まれであり、7歳から14歳まで学校に上がったとされているが、実際は学籍もなかったようで、自伝の中では塩を運んで家計を助けた、とされている。才気煥発で剛直、朴訥な性格ではあったが、学問には縁遠かった。後に良くも悪くも学のなさが賀龍の人生を大きく左右する。
[編集] 思想
賀龍自身に著作が少なく、どのような思想があったのか、詳しく知る資料は少ない。毛沢東や周恩来などの回想を頼ることになるが、文化大革命中に批判され獄死した賀龍に対して、1973年には毛沢東が『賀龍を見誤っていた』と発言し、名誉回復がなされた。賀龍には学問のなさにコンプレックスがあり、発言も控えめであったため誤解されたといわれる。
[編集] 軍歴
- 国民党時代
- 1914年 中国革命党に参加
- 1916年 地元で革命軍を組織するが、決起は失敗する
- 1926年 国民革命軍第九軍第一師団師団長
- 1927年 国民革命軍第二十軍軍長
- 共産党時代
- 1927年 南昌起義に参加、決起軍指揮官となるも敗退、南下途中で共産党入党
- 1934年‐1936年 長征に参加
- 1936年 紅軍第二方面軍司令官
- 1937年 八路軍第120師団師団長
- 1940年 晋西北軍区(後に晋绥軍区に改変)参謀
- 1950年 チベット解放総司令官
- 1954年 人民革命軍事委員会副主席
- 1955年 中華人民共和国元帥。
[編集] 党歴
- 1927年 中国共産党入党
- 1954年 国務院副総理。
- 1956年 中共中央政治局員。
- 1959年 中共中央軍事委員会副主席。
- 1960年 中央軍事委員会国防工業委員会主任。
- 1952年 この年より、国家体育委員会主任を兼務。
- 文化大革命により、1969年 6月 9日獄死。
[編集] 人物像
賀龍の革命運動参加は二本の包丁から始まったといわれている。16歳のとき牛刀2本で大地主の私兵を襲い、武器弾薬を入手して革命軍を組織したといわれ、後々まで語られる逸話となった。21歳には2万人にものぼる農民軍を率い叛乱を組織したと伝えられる。硬い意志と不屈の闘志で革命を戦い抜き、最後まで毛沢東を慕っていたという。四人組に攻撃された際も、毛沢東を信じて最後まで自説を曲げなかったことが却って四人組の憎悪をかきたて、獄死する悲劇を生んだ。現在では故郷の湖南省に賀龍公園が、南昌には賀龍が南昌蜂起の際に革命軍を指揮したことを記念する指揮部旧址が造られ、故人が偲ばれている。
カテゴリ: 1896年生 | 1969年没 | 中華人民共和国の軍人 | 中華人民共和国の政治家