趙 (戦国)
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趙(ちょう)(chao)は戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であったが、紀元前403年に韓、魏と共に諸侯に列せられてして独立した。その後紀元前228年に秦に滅ぼされた。
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[編集] 歴史
[編集] 趙氏の興隆
周の穆王に仕えた名御者・造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。その後趙氏は晋に仕え、晋の文公の側近であった趙衰以後大いに栄え春秋時代末期には晋を実質的に取り仕切る大臣の家系六卿の一つになっていた。しかし宰相趙盾死後、趙氏は専制を疎まれ、粛清を受け、趙盾の孫の趙武が再興するまで一時没落する。紀元前456年、六卿の中でも最大の勢力を持っていた智氏が韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤(趙襄子)は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ。」と寝返りを示唆し、これに成功する。三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した。その後紀元前403年に趙、韓、魏は正式に諸侯となる。
[編集] 武霊王の登場
武霊王の時代に強勢となり、周王の下に封建された諸侯のひとつから周王に替わる王を称するようになった。武霊王は紀元前307年、胡服騎射を取り入れる。胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていたズボンのような服のことである。当時の中国では士大夫はゆったりした裾の長い服を着ており、戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は粘り強く説得を続け、遂に実行する。趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大した。
[編集] 秦の圧力
紀元前298年武霊王は退位し王位を子の恵文王に譲り、自らは主父と名乗り実質的な権力を握り続けた。しかし紀元前299年恵文王と公子章の間の後継者争いが元で主父が幽閉され餓死すると趙の絶頂時代は終わり、秦の攻勢に脅かされる。藺相如と廉頗、趙奢といった名将たちの働き、たとえば、紀元前270年の閼与の戦勝などにみられるようにしばらくは持ちこたえるが、藺相如が引退した後の紀元前260年の長平の戦いで秦の将軍白起に大敗し、その兵力の大半(戦死5万、坑刑40万と言われる)を失うと趙は急激に弱体化した。その勝利に続き秦軍が首都邯鄲に迫り、民衆が飢え子供を喰らって食いつなぐなど滅亡寸前となるが、平原君により魏の信陵君・楚の春申君らの援軍を呼び寄せ、撃退している。
また、幽穆王遷のときには、匈奴から国境線を守った李牧という名将がいて、秦軍の撃退している。当時秦の攻撃を一時的にでも退けられたのは楚の項燕と李牧のみであった。ただしこの李牧も幽穆王が侫臣郭開の讒言を真に受けて殺し、また各国も援軍を出せるような状態には無く、紀元前228年、秦の王翦、羌瘣の軍に攻められ邯鄲が陥落。この年をもって滅亡とされるが、王族の嘉が代へ逃れて政権を建てている(代王嘉)。しかし、代の政権も燕とともに紀元前222年に滅ぼされ完全に滅亡した。
のちに陳勝呉広の乱に乗じて趙王の子孫の趙歇が趙を復興させたが、韓信の背水の陣に敗れて滅ぼされた。