逢坂山トンネル
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逢坂山トンネル(おうさかやまとんねる)は、いずれも、滋賀県(大津市)と京都府(京都市山科区)の間にある逢坂山に掘削されたトンネルである。なお、トンネル自体は滋賀県内に位置する。逢坂の関といえば平安時代から和歌に詠まれるほどの地であり、日本の交通史上有名な箇所である。なお、本項目では、以下の3本のものについてを記載する。
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[編集] 東海道本線
[編集] 逢坂山隧道
日本で掘削された最初の山岳隧道(トンネル)、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた。工事の総監督は飯田俊徳が、現場の工事監督は国沢能長が務めた。
[編集] 建設の経緯
1877年2月6日に京都駅~大阪駅~神戸駅間が開業。その後敦賀まで延伸する計画があったが、西南戦争等の影響でなかなか着工できないでいた。
1878年8月21日にようやく着工、この時京都と大津を一直線で結ぶと長大トンネルを2つも掘削しなければならなかった。さらに調査で東山は地質が不良だと判明し、東山を避ける形で現在の奈良線を通って南下し、稲荷駅経由で着工することとなった。
1879年8月18日京都駅~稲荷駅~大谷駅間が仮開業。大谷~大津間は逢坂山に隧道を掘らざるを得ないので大谷~大津間を最短で結ぶ664.76mが掘削されることになった。これが逢坂山隧道である。
1878年10月1日に東口、同年12月5日に西口から掘削開始。1880年6月1日に完成し同年7月15日に京都駅~馬場駅(現・膳所駅)~大津駅(現・京阪線浜大津駅付近)が全通した。
[編集] 複線化
この京都駅~馬場駅間は両側共に25‰の急勾配区間であり、輸送上のネックとなったために、東海道本線の中でも優先して複線化が計画された。1897年3月5日大谷~京都間下り線増設、1898年4月15日馬場~大谷間上り線増設により上り隧道が開通。
しかし、勾配を緩和した東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通し、同区間の新線が1921年8月1日の開業とともに逢坂山隧道は使命を終えた。
[編集] 東山トンネル・新逢坂山トンネル
東山トンネルと新逢坂山トンネルは後述のように並行して工事が行われたため、東山トンネルについてもここでは述べる。
[編集] 建設の経緯
前述のように逢坂山隧道を含む路線は複線化されたものの依然として25‰の勾配が連続する区間で輸送のネックとなっていた。
そこで1910年5月に京都~馬場(現膳所)間の新ルートを計画した。1914年調査測量が行われ地質が不良だが将来の運転・保線の面から東山にトンネルを設け、さらに逢坂山にも新トンネルを設けて京都~馬場間をほぼ一直線に結ぶルートが選択された。
1914年に新線が着工され東山トンネル1865m、新逢坂山トンネル2325m共に断面を大きくなるのを避けて単線のトンネルを2本並列して掘削された。この時掘削されたのは現在東山トンネルの上り外側線と内側線、新逢坂山トンネルの下り内側線と外側線であったと推察される。
1921年8月1日新線が開業。旧上り線は京都~稲荷間が奈良線に転用、稲荷~馬場間は廃線となった。廃線跡は後に名神高速道路に転用された。
[編集] 3線化
新線は最急勾配が上り線で10‰に緩和されたが、第2次大戦中の輸送力増強により京都~膳所間で上り2線下り1線の3線とすることとなった。この工事は1941年8月に着工され1944年12月1日に完成。これにより東山トンネルでは現在の下り内側線が新たに掘削され旧下り線を上り内側線に転用、新逢坂山トンネルでは上り内側線が新たに掘削されたと推察できる。
[編集] 複々線化
1965年6月には京都~草津間複々線化工事が着工され、70年の3月9日に完成。これにより東山トンネルでは現在の下り外側線が掘削され、新逢坂山トンネルでは現在の上り外側線が新たに掘削された。このうち、新逢坂山トンネルの内側線トンネルと外側線トンネルは大津口付近で合流している。つまり山科口側からは4つ入り口があるが大津口側は3つしかないことになる。
[編集] 京阪京津線逢坂山トンネル
[編集] その他山科と大津を結ぶトンネル
山科と大津を結ぶトンネルは、上記のほか以下のものがある。
- 鉄道
- 道路
- 水路
- 琵琶湖疏水第1疏水の第1トンネル
- 琵琶湖疏水第2疏水(大津から蹴上までの区間で暗渠となっている)
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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