郷士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郷士(ごうし)は、江戸時代にあった階級の一つで武士の一種。名字帯刀を許されており、家系がはっきりしているものも多い。
目次 |
[編集] 概要
通常、江戸時代における武士は城下に集住する(こちらを城下士という)のに対し、在方(郷)に住むためこう呼ばれる。身分は概ね城下に住む武士より下、一般的な百姓より上という身分的中間層であるが地方(各大名家)によって実態は千差万別である。
郷士を大きく分類すると次のようになる。
- かつて武家であったものが兵農分離時に在地を離れず、新たな領主から郷士とされた者(改易された戦国大名の一族や家臣が仕官せず土着・帰農した場合などで、こうした者は在地における実力者であり、新たな領主がその懐柔策として取り立てたことが多い)。
- 富商、豪農で大名家に対しての献金や新田開発の褒美として郷士とされた者。
- 低い身分で城下では食えず、農地で自足自給する下級武士。
- 特別の歴史があるもの。(十津川郷士など)
ただし、厳密な意味での郷士は、「郷士」「在郷給人」「郷足軽」などの身分名称を持ち、大名権力による家臣団の秩序の中に組入れられている者である。扶持・知行や給地と呼ばれる無年貢地を与えられ、年貢地と併せて耕作し(小作地として地主経営をする場合もある)、かつ軍役を負担することが多い。その意味で、百姓・町人で単に名字帯刀を許された者と郷士は別物であると言える。ゆえに、庄屋や大庄屋あるいは豪商などで単に名字帯刀を許されただけの者は、武士階級における郷士とは言いがたい。これらは特権豪農・豪家というべきである。
また郷士内においても、細分化された階層に分かれている場合がある。例としては、由緒によって郷士となった旧族郷士と献金などによる取立郷士の別、給地・知行、村役や御預など役付の有無などである。
なお、各時代、国において正規の武士、騎士より下位の軍事的特権階級を郷士と表記することがある。英国のEsquire、スペインのhidalgo等。
[編集] 郷士の例
[編集] 土佐郷士
関ヶ原の戦い以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣一領具足層を懐柔するため郷士に取り立てた。一方、掛川衆や山内侍と呼ばれる上士は、山内一豊が掛川城主だった時からの家臣や土佐入封前に大坂牢人を取り立てたものである。土佐藩における郷士は武士とはいえ、他藩に比べると徹底した差別下にあったとされる。
[編集] 肥後郷士
実際の名称は郷士とは言わず在中御家人と呼ばれた。はじめは、農村行政等の必要性から、前領主、小西・加藤氏の帰農遺臣や土豪に士格を追認したのは他藩と同様である。また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせた。こうした例に「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。また江戸時代中期以降、藩は献金に応じ郷士格を乱発する傾向となり、昇格する格式によって金額まで定められ藩の収入の一部ともなり「寸志御家人」として制度化された。それによって与えられる身分は、「一領一匹」と「地士」以外は概ね「足軽格」程度であり、献金郷士は「カネ上げ侍」と陰口され明治以降もそれらの子孫で士族となった者は「カネ上げ士族」といわれた。
[編集] 薩摩郷士
旧族居付大名であるため、外城制の存在などに見られるように中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは異なり、戦国時代における在地武士がそのまま郷士として家臣団の末端に組み込まれた。江戸時代中期以降(特に島津重豪の藩政改革)以降、鹿児島城下に住む「城下士」と郷士の間には厳格な身分差意識が誕生したといわれる。明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われる。