酒井忠強
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酒井 忠強(さかい ただつよ)は、江戸時代の大名。上野伊勢崎藩の第8代藩主。
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時代 | 江戸時代末期(幕末)、明治時代 | |||
生誕 | 天保6年12月4日(1836年1月21日) | |||
死没 | 明治18年(1885年)6月14日 | |||
戒名 | 祥雲院殿 | |||
官位 | 正五位、下野守 | |||
藩 | 上野伊勢崎藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠恒、母:滝子 | |||
兄弟 | 酒井忠強、板倉忠幾、酒井忠邦 | |||
妻 | 正室:酒井忠実の三女・玲 | |||
子 | 酒井忠彰 |
天保6年(1835年)12月4日、第7代藩主・忠恒の長男として生まれる。嘉永4年(1851年)4月7日、父の隠居により後を継いだ。幕末期においては譜代大名として外国船来航に備えての警護役や天狗党の乱鎮圧で貢献している。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府にいち早く恭順して自ら謹慎することで、新政府に協力することを示した。このため、1000両の資金と500俵の兵糧を献上することで許されている。
慶応4年(1868年)6月25日、忠彰に家督を譲って隠居する。明治18年(1885年)4月、正五位に叙任するが、同年6月14日に死去。享年51。墓所:東京都葛飾区高砂町の崇福寺。
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