野村六彦
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野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は、広島県広島市出身の元日本代表サッカー選手。元日立(現柏レイソル)所属。日本サッカーリーグ(JSL)初代得点王。ポジションはFW又はMF。
[編集] 経歴
実家は老舗の文具店。サッカーの強かった国泰寺中学でサッカーを始める。宮本輝紀、森兄弟(森健兒、森孝慈)、今西和男らも同中学出身。一旦広島県立国泰寺高校に入学するが広島市立舟入高等学校に転校。ドリブル力やフェイントなどに秀でた選手として「超高校級」と評判をとった。3年時には主将として今西らと1958年の全国高校サッカー選手権出場。その後中央大学に進むが実家が倒産、大学4年間は育英資金と学生食堂のアルバイトで苦学し通う。在学中の1962年には、同郷の小城得達、桑原楽之、岡光龍三と共に活躍し、四半世紀振りとなる大学単独チームでの天皇杯獲得に貢献した。1960年大学2年時に全日本に選ばれヨーロッパ遠征に参加。チェコスロバキアU-23選抜戦での途中出場が唯一の代表出場試合と思われる。この時当時の全日本監督高橋英辰とデットマール・クラマーに2ヶ月間寝食を共にして指導を受けた。
1962年大学卒業時には実業団の多くの強豪チームから声が掛かったが、電気業界に魅力を感じ日立製作所に入団した。野村の入社以降、日立は中大出身者が増えた。サッカー部に入部すると身長165cm・体重64kgと小柄ながら、豊富な運動量でエースストライカーとして君臨。入団3年目だった1965年には創設された日本リーグの第1回得点王(15得点)に輝いた。また1967年の豊田織機戦で、1試合4アシストのJSL記録(ギネスブックに現在も残る)を残す。日立は低迷していたが1969年、高橋英辰が監督就任。高橋は野村を軸にチームを構成すればチームの再建は可能、と野村を攻守の切り替え・中盤の繋ぎ役に抜擢した。新婚で千葉の社宅に住んでいたが、高橋から「そんなところにいてはダメだ」と言われ練習場の近くに引越しをさせられたという。高い戦術眼を生かして、一段低い中盤にポジションを移した野村は攻められれば厚い守りとなり、ボールを奪えば、後方からわき上がるように次々と走り出す「走る日立」の主将・中心選手として活躍、チームを立て直し1972年、日立唯一のリーグ優勝をもたらした。またこの年32歳で日本年間最優秀選手(MVP)にも選ばれた。この年と翌1973年と連続得点王になった松永章にも再三、野村からの好パスが供給された。兼任コーチとして40歳まで現役選手を続け、母校・中大コーチも兼ね、現役引退後はチーム監督として2年間後進を指導した。
社業では日立に入社して最初の配属先は、出来たばかりのコンピューター部門で、ここでコンピューターの外販の営業を担当した。その後日立製作所情報システム営業本部特販営業部課長を経て、日立マクセルに移り、東京P1支店副支店長、同特販営業本部部長などを務め企業戦士としても成功した。
青山学院大学サッカー部コーチの他、1989年から川淵三郎の要請で、日本サッカー協会・Jリーグマッチコミッショナー、オフィシャル・コミッサリー(副議長)を務めるなど審判員の人材育成などを担当している。川淵は共にクラマーに教えを受けたのち、代表選手としてはあまり活躍出来なかった点、一時日本のサッカーに情熱を失い、ヤリ手営業マンとして成功した点など、Jリーグ発足までの経歴が似ておりウマが合うようで、好き嫌いのはっきり分かれる川淵だが、野村は人生で出会った中で最も魅力的な人物、と川淵を評している。JSL初代得点王という事で、Jリーグの初代得点王になったラモン・ディアスのJリーグアワードでのプレゼンターも務めた。
[編集] 書籍
- Vゴール営業 成功の法則―サッカーに学ぶコンパクトチームづくり/自著 日刊工業新聞社刊(1996年8月)
- 最後に勝つサッカー―ハイエナと呼ばれた得点王/松永章著 日貿出版社(1987年3月)
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