今西和男
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今西 和男 (いまにし かずお、 1941年1月12日 - )は広島県広島市中区平塚出身の元サッカー選手(DF)、サッカー指導者(S級ライセンス保持)。
元東洋工業サッカー部選手、マツダSC監督、サンフレッチェ広島総監督、強化部長、取締役専務。現FC岐阜ゼネラルマネージャー、吉備国際大学教授。
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[編集] 経歴
[編集] 幼少~学生時代
広島市中心部の遊廓近く、平塚の生まれ育ち。父親は中国電力のサラリーマンだった。4歳の時被爆、全身の左半分に閃光が襲い左手足に今もケロイドが残る。宮本輝紀は国泰寺中学の同級生で、森兄弟(森健兒・森孝慈)も同中学の先輩・後輩となるが、中学のころはサッカー部の人数が多くて入部できなかった。舟入高等学校へ入学すると柔道部へ入部するも、2年生の時に先輩の野村六彦に誘われサッカー部へ入部。不自由な左足を克服するため、ゴールポストに藁を巻いて蹴っていた。デビュー戦となった広大付属高校戦では左フルバックで出場、鬼武健二をマークして勝利を収めた。1958年の高校選手権にも出場した。その後、小沢通宏の出会いから東京教育大学へ進学すると1年生からレギュラーとして活躍した。
[編集] 東洋工業~マツダ時代
1963年、東洋工業サッカー部入り。強靭なディフェンダーとして、下村幸男監督下で小城得達・桑原楽之・松本育夫・石井義信らとともに1965年から創設された日本サッカーリーグの初年度から1968年までの不滅の四連覇に大きく貢献した。1966年には日本代表(当時の名称は全日本)に選出されアジア競技大会(バンコク)出場(3試合0得点)。しかし1967年、膝の靭帯を痛めた。当時のスポーツ医学では分からず、分かったのは1969年の引退後だった。
1972年、一切サッカーから離れ社業に専念、営業の現場でも優秀な成績を収めた。1982年から再びサッカー部に携わり副部長・総監督に就任。低迷が続くチームの浮上策として、新しい血の導入に外国人指導者招聘のため世界中を駆け廻り、選手育成に長けていたオランダ・アヤックスやフェイエノールトに着目した。1984年、マツダSC監督につきハンス・オフトをコーチに招聘、1986年から日本リーグ1部にチームを復帰させるが、1988年再び2部に転落。1991年1部復帰の成果を得る。
[編集] Jリーグ初期
Jリーグ開幕に向け準備を進める中、親会社であるマツダが業務不振からJ参入に消極的な姿勢を取っていた。そこでチーム名に企業名が入らないことを逆手に取り、広島県内の企業にチームへ出資して貰うために走り回った(今現在では普通だが、当時は親会社がほとんど出資するものだと考えられていた)。1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任。この間、後に日本代表となる森保一らの育成、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた風間八宏をチームリーダーとして熱心に口説き入団させ、韓国のスター選手だった盧廷潤、その他イワン・ハシェック、スチュワート・バクスターらの招聘、フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)にいた高木琢也の獲得などで、Jリーグ創設2年目のファーストステージを制覇した。ノーマークの西端のチームの優勝は、驚きを持って迎えられ、当時はまだ爆発的サッカー人気が持続していたため、総監督としてチーム作りに尽力した今西がゼネラルマネージャー(GM)と称されTV、雑誌に大いに取り上げられた。「サンフレッチェ一家のおおらかな親分」のような存在で、大きなガタイはいかにもエネルギッシュ、また面倒見のよさでまわりや選手達にも信頼された。
[編集] 日本サッカー協会での活躍
1994年、新設された強化委員会の副委員長に就任して陣頭指揮にあたり、ユース年代の強化育成、指導者養成システムの拡充、五輪チーム、トップチームのサポートなどに腕を振るった。また1997年には、フランスW杯アジア地区最終予選途中での加茂周監督更迭、岡田武史コーチの昇格を強行に進言した。このため日本のワールドカップ初出場の最大の功労者、と評価されることもある。その後も日本サッカー協会技術副委員長などの要職を務めた。2002年9月、大仁邦彌、小野剛らとともに、ジーコを日本代表次期監督として川淵三郎新会長に推薦しなかったことに端を発し、技術委員会は事実上の解散となった。
[編集] 広島総監督~顧問時代
一方広島では、1996年ごろからJリーグバブルがはじけ、チームは経営不振となった(マツダがフォードに買収され、フォード側から派遣されたマツダ新社長がスポンサー料を渋ったことも原因の一つ)。チーム存続のため、主力の減俸や高木琢也や森保一などの主力放出を断行し、他チームの戦力外選手を安く雇うなどをしながらも、若手を育て経営安定に努めた。
また、Jリーグ新規参入クラブとして活動しだした、大分トリニータや愛媛FCの創設にアドバイザーとして参加し、自身の持つノウハウを伝授した。
2002年に監督・外国人選手・主力の怪我人を埋める補強がすべてうまくいかずチームはJ2降格、シーズン後に総監督を辞任した。翌2003年から現場を退き、広島顧問(名刺にはゼネラルアドバイザーと記してある)に就任した。 同時期に広島都市圏でのサッカー専用スタジアム建設を目指す「スタジアム推進プロジェクト」の事務局長し、広島市民球場跡地など候補を絞りプロジェクトを進めていたが、結果として結びつかなかった。
2007年1月31日をもって広島顧問を退任。
[編集] 現在
2005年から吉備国際大学(岡山県)スポーツ社会学科教授、サッカー部総監督に就任し、現在も在籍している。
同2005年、当時東海2部にいたFC岐阜の顧問に就任し、アドバイザーとして東海1部・JFL昇格を影から支えた。2007年2月1日からはFC岐阜のゼネラルマネージャーに就任した。これまでにも、大分トリニータや愛媛FCなどのJリーグ新規参入予定クラブのアドバイザーを務めるなど過去の経験を生かしてきたが、広島を離れて新規参入予定クラブのマネジメント職に就くのは初めて。
[編集] 略歴
- 国泰寺中学
- 広島市立舟入高等学校
- 東京教育大学(現・筑波大学)
- 東洋工業/マツダ 1963 - 1994
- 東洋工業サッカー部:選手 1963 - 1969
- 全日本代表 アジア大会3試合0得点 1966
- マツダサッカークラブ:副部長・総監督 1982 - 1991
- マツダサッカークラブ:監督 1984 - 1987、
- 東洋工業サッカー部:選手 1963 - 1969
- サンフレッチェ広島:総監督 1992 - 2002
- マツダ退社 1994
- サンフレッチェ広島:強化部長 1994
- サンフレッチェ広島:取締役強化部長 1995 - 1999
- サンフレッチェ広島:取締役専務 2000 - 2002
- 日本サッカー協会:強化委員 1994 - 1997
- 日本サッカー協会:強化副委員長 1997 - 1999
- 日本サッカー協会:技術副委員長/強化本部委員 1999 - 2002.9
- サンフレッチェ広島:顧問 2003 - 2007.1
- マッチコミッショナー 2005
- スタジアム推進プロジェクト:事務局長 2003 - 2007.1
- FC岐阜:顧問 2005 - 2007.1
- FC岐阜:ゼネラルマネージャー 2007.2 -
- 吉備国際大学:教授 2005-
- 吉備国際大学:サッカー部総監督 2005-
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- アジア競技大会(1966)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1966)
- 国際Bマッチ 2試合 0得点(1966)
- 国際Cマッチ 6試合 0得点(1966-1967)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1966年 | 3 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 |
1967年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 |
[編集] 功績
- 日本におけるゼネラルマネージャーの地位確立。
- 河内勝幸、松田浩、中村重和、小林伸二、望月一頼らの指導者の育成。
1987年ころから、指導者同士による4・5人のグループ討論会が義務付け、年に数回はコミュニケーションスキル発達を目指し、専門講師を招聘、定期的に指導者による1泊2日の研修旅行、リポートも書かせた。 - 大分トリニータ・愛媛FC・FC岐阜などのJリーグ新規参入クラブへアドバイザーとして参加。
- 下部組織の整備
マツダサッカークラブ東洋設立、Jリーグチームで初のユース寮、Jr.ユース年代のみのスカウト網、地元小中高校との関係強化 - 信藤克義、前川和也、森保一、柳本啓成、上村健一、下田崇、久保竜彦、駒野友一らの発掘・育成。
[編集] エピソード・語録
- 人望も厚く、日本サッカー界の重鎮にも関わらず、講演や取材を快く引き受けるなど好感度は高い。
- 「一流のサッカー選手である前に、一流の社会人であれ」。
- 「現役を引退してからのほうが人生は長い。そのために、現役時から社会の一般常識を身につけることが大切だ」
- 若手選手に対して「サッカーバカにはなるな」と一人前の社会人であることを厳しく求めた。
- サポーターを大事にする姿勢も有名で、スタジアムや練習場で気軽に話をするだけでなく、サポーターの小さな飲み会にまで出かけて行ってざっくばらんな話をしていた。
- 「日本人はな、日本で結婚するのにもウェディング・ドレスを着る。韓国人はニューヨークで結婚してもチマチョゴリを着る。これはもう善し悪しの問題じゃない。国民性というしかないもんじゃな」(金子達仁『決戦前夜』より)
- 講演会で久保竜彦のネタで笑いをとることが多いが、脚色ではなくすべて事実であり、それだけ久保が才能も個性も豊かな選手であったことを物語っている。
- 例: 「日本代表で、久保が笑いながら誰かとしゃべってる!! とビックリしていたら相手は下田だった」
- 「駒野を例えるならカタツムリ。コツコツと目の前にある課題に取り組み、1歩1歩成長。ついに日本代表、そしてW杯メンバーになった」
- サンフレッチェ広島マスコットである「サンチェ君」は当初、今西をモデルにしていた。そのため初代は似ていたが、そのあと数度モデルチェンジを行ったため、まったく似ても似つかなくなってはいる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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