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森孝慈 |
名前 |
愛称 |
|
カタカナ |
モリタカジ |
ラテン文字表記 |
MORI Takaji |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1943年11月24日 |
出身地 |
広島県 |
選手情報 |
ポジション |
MF |
代表歴 |
キャップ |
55 |
得点/失点 |
2 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - )は、広島県福山市生まれ、広島市育ちの元サッカー選手、サッカー日本代表選手、監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー。実兄はJリーグ創設へ大きな舵取り役を果たした森健兒。
[編集] 経歴・人物
1961年、修道高等学校3年の時、国体優勝。更に全国高校サッカー選手権で釜本邦茂・二村昭雄の山城高校を破り日本一、二冠を達成した。早稲田大学政治経済学部自治行政学科に進学し、2つ上の松本育夫・野村尊敬・桑田隆幸、同級生の二村、1つ下の釜本らと同大学ア式蹴球部の黄金時代を創る。1964年天皇杯では1年で日立本社(現-柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1966年には主将として無敵を誇った東洋工業(現-サンフレッチェ広島)を天皇杯で破り日本一。これは天皇杯、最後の学生優勝である。1967年日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工(現-浦和レッドダイヤモンズ)に入団。杉山隆一、横山謙三らと1969年、日本リーグ四連覇中だった東洋工業を、またも倒し初優勝するなど主力選手として活躍。ミドルシュートの名手として知られた。JSLでは146試合28得点。また日本代表では国際Aマッチ55試合出場2得点の記録を残し、1964年の東京オリンピック、1968年、メキシコオリンピックでも活躍、メキシコオリンピックの銅メダル獲得にも貢献した。
引退後は、日本サッカー協会の指導者としてエリートコースを歩む。1980年西ドイツ留学から帰国後、川淵三郎監督下でコーチ、ワールドカップ・スペイン大会アジア予選の敗退で、翌1981年からは川淵の後を受け日本代表監督に就任。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。森は既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。また代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力。1982年ニューデリー・アジア大会では韓国を初めて国外で破ったりしたが、肝心のロサンゼルスオリンピック予選は連敗を重ね敗退した。
名誉挽回で挑んだワールドカップ・メキシコ大会アジア予選では木村和司、加藤久、都並敏史、水沼貴史、松木安太郎、柱谷幸一、原博実、岡田武史ら、「ペレ世代」とも言うべきテクニックのある強力メンバーを率いて快調に1次予選を突破。1985年最終予選に進出し、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵・韓国に敗れた。森ファミリーと呼ばれ強い結束力があったこのチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームとしてサッカーファンに語り継がれている。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」と明言。完成度の高かったこのチームの敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、森の協会へのプロコーチとしての契約要求は受け入れられず、1986年辞任した。
1988年、兄・健兒と木之本興三が設立したJSL活性化委員会(プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)に参加。また三菱自動車の清水泰男とともに、三菱の本拠地・浦和実現にも尽力した。1992年からは古巣の浦和レッドダイヤモンズの監督に就任。4-4-2が主流の当時では珍しかった3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は好成績をおさめたものの、1993年Jリーグの公式戦が開幕するとシステムが相手に研究され尽くしたのと補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位を独走した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。1994年ワールドカップ・アメリカ大会以降は、3バックが世界的な流行となり、この点では戦術は先取りしていたと言える。
1995年から1997年は横浜マリノスのゼネラルマネージャー、1998年はアビスパ福岡の監督を務め、J1参入決定戦で辛うじてJ1に残留、1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた。2002年からレッズのGMに就任、大幅補強により2004年、レッズと埼玉県民に悲願のステージ初優勝をもたらした。2006年1月31日をもってGMを退任、チームを離れた。
弱小チームの監督を多く歴任したせいか苦虫を噛み潰したような特徴のある表情がトレードマークであった。修道高校時代の同窓に弁護士として著名な弘中惇一郎がいる。
2006年、日本サッカー殿堂入り。
[編集] 所属クラブ
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 55試合 2得点(1966-1976)
- 国際Bマッチ 19試合 2得点(1967-1975)
- 国際Cマッチ 79試合 6得点(1965-1975)
年度 |
国際Aマッチ |
国際Bマッチ |
国際Cマッチ |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1965年 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1966年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
3 |
1 |
1967年 |
5 |
1 |
3 |
0 |
13 |
0 |
1968年 |
4 |
0 |
9 |
0 |
7 |
1 |
1969年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
17 |
1 |
1970年 |
13 |
0 |
0 |
0 |
10 |
1 |
1971年 |
2 |
0 |
2 |
0 |
11 |
0 |
1972年 |
8 |
0 |
2 |
1 |
5 |
2 |
1973年 |
1 |
1 |
0 |
0 |
3 |
0 |
1974年 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
1975年 |
9 |
0 |
3 |
1 |
4 |
0 |
1976年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
通算 |
55 |
2 |
19 |
2 |
79 |
6 |
(誤差は不明)
[編集] 監督成績
年度 |
所属リーグ |
勝点 |
試合数 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
順位 |
チーム |
1993年 |
J・サントリー |
- |
18 |
3 |
15 |
- |
10位 |
浦和レッドダイヤモンズ |
J・ニコス |
- |
18 |
5 |
13 |
- |
10位 |
1998年 |
J・1st |
9 |
17 |
3 |
14 |
- |
18位 |
アビスパ福岡 |
J・2nd |
15 |
17 |
5 |
12 |
- |
15位 |
[編集] 外部リンク