長宗我部兼序
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長宗我部兼序(ちょうそかべ かねつぐ、長宗我部元秀。?-1508年(永正5年)9月)は、戦国時代の土佐の国人領主。長宗我部雄親の子。名は兼序のほかに元秀。通称は信濃守または宮内大輔。
はじめは智勇兼備の名将で家臣団からの信望も厚く、その治世はうまく機能していた。しかし香美郡の山田氏と抗争し続けたうえ、守護の細川政元の後ろ盾をいいことに次第に傲慢な態度が目立つようになり、土佐の豪族からの反発を買うようになった。1507年、政元が死去すると後ろ盾を失ったうえ、家臣団からもその傲慢な態度から見放されて孤立してしまう。そして、このような情況を見た本山茂宗や山田基道、大平元国らが翌年に同盟を結び、共同して岡豊城に攻めて来る。兼序は兵力的に圧倒的に不利であったにも関わらず奮戦したが、敵に糧道を断たれたうえ、味方の中からも離反者が相次いで遂に自殺を余儀なくされてしまった。彼の遺児・長宗我部国親(千雄丸)は戦場から落ち延び、一条房家を頼っている。智勇兼備の名将であったが、己の力を過信したことが彼の命運を決定づけたのであった。