長尾景信
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時代 | 室町時代中期 | |||
生誕 | 応永20年(1413年) | |||
死没 | 文明5年6月23日(1473年7月18日) | |||
別名 | 彦四郎、左衛門尉(通称) | |||
戒名 | 玉泉宗徳 | |||
氏族 | 長尾氏 | |||
父母 | 父:長尾景仲 | |||
兄弟 | 弟:長尾忠景 | |||
妻 | 長尾頼景の娘 | |||
子 | 長尾景春 |
1413年、上杉憲実の家宰・長尾景仲の子として生まれた。1461年、父が高齢を理由に隠居したため、その後を継いで山内上杉氏の当主・上杉房顕の家宰となった。1466年に房顕が嗣子無くして死去すると、将軍足利義政の命を奉じて、越後の守護大名であった上杉房定の次男・上杉顕定を房顕の養子として迎えた上で山内上杉氏を継がせ、1467年には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として山内上杉氏の実権を掌握し、影の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。1471年4月には自らが総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落としている。同年5月には下総に攻め入って、遂に成氏の居城・古河城をも陥落させてしまった。
しかし1472年、成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。戦いは優位に進めていたが、その最中である1473年6月23日、五十子において陣没してしまった。享年61。
後を弟の忠景が継いだが、これに不満を抱いた嫡男・景春が上杉顕定に対して反乱を起こす事になる。