古河城
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古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市の渡良瀬川東岸にあった城。
室町時代後期に古河公方が置かれて古河御所(こがごしょ)の別称を持った。江戸時代には古河藩が置かれたが、明治時代の渡良瀬川の大改修によって城跡のほとんどが水没した。
渡良瀬川の流れの中に突き出した半島状の大地に築城され、北にこそ堀が築かれたものの、西は渡良瀬川、東南は通行が困難な湿地帯であったと言う。天守閣はなかったものの西北に設けられた3層の櫓が後世に築かれてその雄姿が望めたと言う。
[編集] 概要
鎌倉時代に下河辺氏の居館の一つがあったとされている。1340年に北朝の高師直が古河城に入ったとされている。以後、足利氏の城として機能する。小山義政の乱や結城合戦では追討軍の拠点とされた。
1455年、享徳の乱で関東管領上杉氏に鎌倉を追われた鎌倉公方足利成氏がこの城を逃れて「古河公方」を称して地元下総国や常陸国の諸将の支援を受けて以後1世紀にわたり根拠とした。
戦国時代の1546年、北条氏康が河越夜戦で古河公方足利晴氏を破るとそのまま古河城を占領して晴氏を相模国に連行する。更に1558年には古河公方家の重臣簗田晴助の居城関宿城を接収して強引に古河城に移らせた。だが、3年後晴助は上杉謙信の支援を受けて晴氏の嫡男足利藤氏を擁して挙兵する。1562年に北条氏康が古河城を取り戻すものの、不安に駆られた氏康は自分が擁立した足利義氏を古河城に戻した。その後、義氏が男子を遺さずに没したため、古河公方家は断絶する。
1590年、豊臣秀吉の関東平定後に古河城は破却されるものの、間もなく新領主徳川家康が小笠原秀政を栗橋城に封じると、再び古河城を再建するように命じられた。以後、古河藩歴代藩主の居城となった。以後藩主交代のたびに改築を繰り返した。特に日光街道沿いにあったために江戸幕府の成立後は徳川将軍の日光東照宮参拝のたびにこの地を通過し、うち1617年・1622年・1629年・1776年・1843年には古河城で宿泊、1634年・1636年・1640年・1642年には同じく休憩を取っている(なお将軍の休憩が短期間に集中しているのは、当時の筆頭老中・大老を務めた土井利勝が古河藩主であった事と深く関わっているとされている)。
廃藩置県で廃城となり、足尾銅山の鉱毒事件の影響で渡良瀬川の大改修が行われた際に城跡は破壊されて川が貫通し、残された部分も同川の河川敷となっている。