長綱連
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長 綱連(ちょう つなつら)は、戦国時代の武将。能登畠山氏の家臣。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天正5年9月15日(1577年10月26日) | |||
氏族 | 長氏 | |||
父母 | 父:長続連 | |||
兄弟 | 弟:長定連、長連龍、長則直 | |||
子 | 竹松丸、弥九郎、菊末丸 |
畠山氏の重臣である長続連の嫡男として生まれる。永禄10年(1567年)から元亀2年(1571年)の間に父・続連より家督を継承したとみられる。元亀元年(1570年)に畠山義慶政権で一新された年寄衆で綱連は温井景隆、平堯知、遊佐盛光、三宅長盛、長光連らと共に列した。天正2年(1574年)に義慶が死去するとそのまま義隆に仕え、父と共に能登畠山家の筆頭重臣として活躍する。その義隆も天正4年(1576年)に死去すると、その跡を継いだ畠山春王丸の後見人となる。春王丸は幼少だったため、父と共に能登畠山氏の実権を掌握し主導した。
同年冬から越後の上杉謙信による侵攻を受けたが、父と共にこれを1度は撃退した。しかし天正5年(1577年)に再び謙信の侵攻を受け、その最中に春王丸も死去して窮地に陥ると、弟の長連龍を使者として織田信長に援軍を要請する。しかし援軍が到着する前の9月15日、謙信と通じた遊佐続光や温井景隆らの裏切りによって、七尾城内で父や一族と共に殺された。