隼人
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隼人(はやと)とは、日本古代において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。はやひと(はやびと)、はいととも呼ばれる。
古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、熊襲が伝説的記録に現れるのに対し、隼人は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。
5世紀ごろに服属したというが、その後もしばしば朝廷に対し反乱を起こした。一方、大隅隼人、阿多隼人などは古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。
山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。大隅の隼人は大隅国が置かれた(713年)後にも反乱を起こしたが、大伴旅人の征討(721年)後には完全に服従した。ただし稲作がふるわないこともあり、班田収授は800年に初めて実施された。
言語・文化に関して他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている。
肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。
考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある(隼人全体からすると一部にすぎないと思われる)。
日本神話では、海幸彦(火照命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。この説話は、隼人の服属の起源を述べたものとされるが、むしろ説話自体が隼人の説話からとり入れられたものと見られる。説話の類型(大林太良ら)などから 、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もあるが、直接的証拠はない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『隼人の古代史』(中村明蔵著、平凡社新書、ISBN 978-4582851199)