集史
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集史(しゅうし、アラビア語: جامع التواريخ Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。
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[編集] 概要
『集史』は1300年、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命により宰相ラシードゥッディーンを中心にしたグループによって編纂が進められ、ガザンが没した後、最終的に1310年に完成しガザンの後を継いだオルジェイトゥに献呈された。
即位以来、ガザンは、チンギス・カンの後裔フレグ、ひいてはそのフレグ家の当主である自らのもとにイルハン朝領域下のモンゴル系諸勢力を中央集権的に支配するという、強力な国家改造を押し進めていた。ガザンは、その政策の重要な柱のひとつとしてチンギス・ハン家とモンゴル国家の歴史編纂を企図し、祖父アバカ以来侍医として仕え当時宰相(ワズィール)に抜擢されたラシードゥッディーンにその編纂長官職を任命した。
編纂事業については、ガザン自身の口述の他に『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』と称されたモンゴル王家秘蔵の歴史書の閲覧を許可され、イルハン朝領内を中心にモンゴル諸部族集団で保持されていた伝承・旧辞・金言・系譜などに加え、中国やインド、フランクなどの様々な地域の知識人たちを動員して編纂が進められた。1304年にガザンが没したため彼は完成を見る事は無かったが、1307年にモンゴル帝国史の部分は完成し、『ガザンの祝福されたる歴史(Tārīkh-i Mubārak-i Ghāzānī)』と名付けられ、ガザンの弟でその後継者となったオルジェイトゥに献呈された。ガザンの政策を受継いだオルジェイトゥは、引き続きモンゴル帝国と関わった世界各地の歴史を網羅するようこれらの種族の歴史も追加編纂するように命じ、1314年に完成して『集史(Jāmi` al-Tawārīkh)』と名付けられた。
モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。
ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルであるJāmi` al-Tawārīkhはアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。
[編集] 構成
上述したように『集史』は二段階の編纂を経ているが、第1次編纂の折に完成したのが第1部(Mujallad-i Awwal)、モンゴル史である。これは第1章(Bāb-i Awwal)がテュルク・モンゴル部族志でモンゴル帝国に征服あるいは帰順してモンゴル帝国を構成するテュルク系、モンゴル系の諸部族の来歴とその首長(アミール、ノヤン)たちを情報を述べた部族誌で、各部族はチンギス・ハン家が属すキヤト氏族などモンゴル部族連合を中心に族祖伝承や係累に基づき4種類に分類している。第2章(Bāb-i Duwwum)がチンギス・カン家の歴史で、チンギスの祖先とその子孫について各々の本紀(Dāstān)が設けられている。また本紀は基本的に三部構成になっており、第一部(qism-i awwal)はその人物の妻や妃、息子たちとその系譜、系図、肖像についての説明で、第二部(qism-i duwwum)が本文、第三部(qism-i sawwum)がその人物や逸話や金言について書かれている。以下がその構成である。
- チンギス・ハンの祖先たち
- 祖先についての序文
- ドブン・バヤン紀
- アラン・コア紀
- ボドンチャル・ハン紀
- トドン・メネン紀(『元朝秘史』ではメネン・トドン)
- カイドゥ・ハン紀
- トンビナ・ハン紀(『元朝秘史』ではトンビナイ・セチェン)
- カブル・ハン紀
- クトラ・カアンの金朝との戦争についての章
- ハンバカイ・カアンより後のタイチュウト氏族についての章
- バルタン・バハードゥル紀
- イェスゲイ・バハードゥル紀
、
- チンギス・ハンの一族
本紀(Dāstān)のそれぞれの第2部、第3部(qism)には各々段(hikāyat)が設けられ、治世中などに起きた出来事について語られる。
『集史』の紀年法は、それまでのアラビア語、ペルシア語の書物と一線を画す表記法を採用している。主にモンゴル王族についての事蹟において書かれているのだが、まず、ウイグル暦と思しきテュルク語ないしモンゴル語による十二支年を置き、それのペルシア語による訳を附し、さらに季節とその月々の初、中、晩を述べてヒジュラ暦による年月日、時には曜日が附される。これはモンゴル宮廷では天山ウイグル王国などの書記法を採用して十二支年が使用されていたことが反映された物である。『元朝秘史』や現在発掘されているウイグル王国起源の経済文書なども基本的に十二支年だけで記されているが、ヒジュラ暦や季月などを並記する事で絶対年代の年月日を特定できるよう配慮されている。
また、主要な段にはマーワラーアンナフル、イラン地域、ミスルなど同じ時期の各地の支配者たちの動向についての情報が別項を設けて書かれている。
第2部(Mujallad-i Duwwum)は世界史であり、第2次編纂にあたる。第1章はオルジェイトゥ・ハン紀であったとされるが、これは現存しない。第2章はアダムから預言者ムハンマドを経て『集史』が編纂されたヒジュラ暦704年に至る預言者たちの歴史である。これはサーサーン朝までのイランの諸王朝や、預言者ムハンマド、正統カリフはじめウマイヤ朝、アッバース朝のカリフたち、ガズナ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝、サルグル朝、イスマーイール派のニザール派について扱われる。第3章が諸種族史にあたり、オグズ・ハン以下のテュルク民族の伝承にはじまるオグズ史、中国史に相当するヒターイー史、古代イスラエル史、歴代ローマ教皇とフランク王国、神聖ローマ帝国の君主たちについて扱ったフランク史、釈迦伝を含むヒンドゥ−スタ−ン史 である。そして第3部は地理志であったとされるが、これは伝存していない。
[編集] 後世における『集史』の影響
『集史』は、完成後にモンゴル帝国各地の諸王家へ贈与されたことが記録されており、アラビア語版も同時に作られ、マムルーク朝でもそれらが読まれた。ラシードゥッディーンはオルジェイトゥ治世中に『ラシード著作全集』を著し、自らのワクフによる施設で毎年写本を一部づつ完成させるよう指示をしていた。この中には『集史』とそのアラビア語版も含まれており、両種類の写本群が現存している。このため後のティムール朝時代にもシャー・ルフによる修史事業でも写本が再編集され、またオスマン朝やサファヴィー朝、ムガル朝でも読まれ各種の写本が作成され続けた。
近代の歴史学でも、1700年代初頭から東洋学の基本文献のひとつとして位置付けられ、19世紀から訳注・研究がされているが、現存する写本群は各地に分散して保存され、各々の写本の成立年代や性格、またその『集史』それ自体の性格上テュルク・モンゴル語上や用語などの問題も含めて、14世紀以降の中央ユーラシア世界で極めて影響力の大きい歴史書でありながら、いまだ十全な校訂本や定訳は出現していないとさえ言われている。このため今後の文献学、歴史学などの研究のさらなる進展が期待されている。
[編集] 参考文献
- 赤坂恒明「『五族譜』と『集史』編纂」『史観』130、1995
- 岩武昭男「ラシードゥッディーンの著作活動に関する近年の研究動向」『西南アジア研究』40号、1994.3
- 岩武昭男「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」(関西学院大学東洋史学研究室編)『アジアの社会と文化』(法律文化社)1995.6
- 岩武昭男「ラシード著作全集の編纂 --『ワッサーフ史』著者自筆写本の記述より-- 」『東洋学報』78-4、1997.3
- 志茂智子「ラシードゥ・ウッディーンの『モンゴル史』 --『集史』との関係について-- 」『東洋学報』76-3,4、1995
- 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説』(東京大学出版会)1995、「序章」(pp.1-18)
- 白岩一彦「『集史』研究の現状と課題」『日本中東学会年報』10、1995
- 杉山正明「集史」『中央ユーラシアを知る事典』(平凡社)2005.4、(pp.246-247)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[1]矢島洋一ほか9名による翻訳。