イェスゲイ
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イェスゲイ(Yesügei, 生没年不詳)は、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部族の首長のひとり。モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの父として歴史に名を残す。『元史』における漢字表記は也速該。
イェスゲイは、はじめてモンゴル部族を統合してハーンの地位についたカブル・ハーンを祖とする、キヤト氏を代表する有力な首長であった。彼自身は生涯ハーンに即位することはなかったが、「勇者」を意味する称号であるバガトル(バアトル)をもって呼ばれており、モンゴル帝国において書かれた歴史書ではイェスゲイ・バガトル (Yesügei Baghatur) あるいはイェスゲイ・バアトル (Yesügei Ba'atur) という名で記録されている。
イェスゲイはモンゴル部族の首長層を輩出したボルジギン氏の一員として、カブル・ハーンの次男であるバルタン・バアトルの三男に生まれた。彼の勇敢さを示す逸話として、『元朝秘史』の伝える妻ホエルンをメルキト部族から略奪して娶った物語がよく知られているが、その史実性については疑問視する説もある。
12世紀の第2四半期頃、カブル・ハーンが死ぬとタイチウト氏のアンバガイがハーンに即位し、その死後にはバルタン・バアトルの弟でイェスゲイの叔父にあたるクトラがハーンに即位した。アンバガイ・ハーンはタタル部族の謀略により中国の金に引き渡されて殺害されたため、クトラ・ハーンはその復讐のためアンバガイの遺児たちが率いるタイチウトと協力してタタルと戦争を繰り返した。クトラの傘下であるキヤト氏の首長であったイェスゲイはこの戦争に加わってタタルと戦い、有力な指導者として頭角をあらわした。
ある年、イェスゲイはタタルと戦い、タタルの首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカを捕虜として本拠地に連れ帰った。このとき身重であった妻ホエルンがイェスゲイの長男となる男子を出生したため、戦勝を記念して、後にチンギス・ハーンとなるこの子供にテムジンの名を与えた。その年は『集史』によれば1155年、『元史』によれば1162年である。
その後、イェスゲイはホエルンとの間にカサル、カチウン、テムゲ、別の妻との間にベルグテイと4人(『元朝秘史』ではベグテルを加えて5人)の男子を設けたが、長男のテムジンもまだ幼い頃(『集史』によれば13歳、『元朝秘史』によれば9歳の時)、若くして急死した。『元朝秘史』によれば、テムジンとコンギラト部族のボルテの婚約を決めた帰り道に、道中で行き逢ったタタル部族の者に毒殺されたという。
イェスゲイの死によってその配下の遊牧民集団は分裂、瓦解し、その後のテムジンはきわめて微小な勢力から出発しなければならなかった。
モンゴル帝国が広大な領域を支配する帝国に成長した後、チンギス・ハーンから数えて第5代のハーンであるクビライは、1266年に中国の習慣により初代皇帝チンギスの父であるイェスゲイに「烈祖神元皇帝」と追諡した。