頼春水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
頼春水(らいしゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日))は、日本の武士・広島藩士、儒学者、詩人。頼山陽の父。
幼名は青圭、名は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は号、別号に霞崖、拙巣、和亭、通称は弥太郎。
[編集] 略歴
- 安芸竹原(現在の広島県竹原市)の紺屋を営む富商 頼惟清(亨翁)の長子として生まれる。母 仲子(道工氏)は春水が幼少の頃死去する。
- 惟清は教育熱心な父親であり春水は4 – 5歳頃より京坂の学者平賀中南や塩谷鳳洲に就いて学問に勤しむ。
- 弟の杏坪、春風らも儒者となり、「三頼」と称される。
- 妻 梅飃(静子)も和歌に秀でていた。
- 明和元年(1764年)19歳になると大阪に遊学。趙陶斎に就き書を学び、片山北海の主催する「混沌詩社」に入り漢詩の創作活動をする。同時に北海から儒学を学ぶ。このころ「詩豪」と呼ばれるほど才能が開花した。
- 安永2年(1773年)大坂江戸堀(現大阪市西区)に私塾「青山社」を開く。
- 安永9年(1780年)長子山陽誕生。
- 天明元年(1781年)広島藩七代藩主浅野重晟に藩儒として招聘され、学問所を創立する。
- 天明3年(1783年)江戸勤番となる。
- 天明5年(1785年)広島藩の学制を朱子学(程朱学)に統一する。
- 寛政8年(1796年)次男大二郎病死。
- 寛政12年(1796年)長男山陽が出奔。
- 文化元年(1804年)山陽を廃嫡する。
- 文化2年(1805年)弟春風の子、景譲を養嗣子として迎える。
- 文化10年(1813年)藩より家禄300石を給せられる。
- 文化12年(1815年)景譲病死。
- 文化13年2月(1816年)春水死去。享年71。孫の聿庵が家督を継ぐ。
- 文政11年(1828年)山陽の編集で遺稿集『春水遺稿』が出版される。
[編集] 業績・評価
春水は謹厳のうえに老獪な性質であり、策動家としての一面を持っている。自らが信じる朱子学をもって藩の学制を統一すると、のちに寛政の三博士とよばれる古賀精里、尾藤二洲、柴野栗山らの旧友と語り合って、彼らを古学から朱子学に転向させる。幕府執政の松平定信に働きかけて、朱子学を幕府正学とし、林家の私学であった昌平黌を官学に変更して三博士を送り込み、陰の影響力を持ち続けることに成功する。「寛政異学の禁」を実行させ、その信念を実現させた。
しかし、この法は多くの学者(冢田大峯や赤松滄洲など)から徹底批判され、定信の退陣を早める一因にもなった。にもかかわらず、春水自身は一切矢面に立つことがなかった。
- 「風格俊整、その人における邪を憎み、悪を嫌い、往々、その非を面斥する」
- 徳富蘇峰の批評「春水は世を渡る上においても、身を処する上においても、なんら間違いなく、なんら危なげも無く、実に安全第一の紳士的学者である」
- 篠崎三島の頼兄弟 漢詩評「春水は四角、春風は円く、杏坪は三角だ」
春水は生前一冊の著書も著さなかったが、没後13年目の文化13年(1828年)に長男 山陽の編集によって『春水遺稿』(十一巻・別録三巻・付録一巻)が刊行された。出版費用は実弟の杏坪が安芸藩主に願い出て補助を受けた。主に春水の漢詩を年代順に掲載している。別録に交友録的な回想記である『在津紀事』と『師友志』が掲載されているが、当時の大坂で活躍した文化人の人間関係を伝える貴重な資料となっている。