柴野栗山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴野栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代後期の儒学者。柴野平左衝門軌逵の長男、母は葛西氏。名は邦彦、字は彦輔、通称・彦助。讃岐国三木郡の出身で、八栗山の近くで生まれたので栗山と号した。また古愚軒とも号した。墓は東京大塚坂下町の大塚先儒墓所にある。
目次 |
[編集] 生涯と業績
幼くして讃岐国高松藩の儒者・後藤芝山の薫陶をうける。貧困と病苦の中で10余年の修業をつむ。宝暦3年(1753年)、18歳で江戸に出て昌平黌の林復軒に学び、明和2年(1765年)京都に遊学し、国学を高橋宗直に学ぶ。明和4年(1767年)から阿波国徳島藩主・蜂須賀氏の儒員となり、世子の侍読となる。のち天明8年(1788年)幕府に召されて昌平黌の教官となり、ついで登用された岡田寒泉とともに大学頭・林信敬を助けて聖堂での講義に当たり朱子学を厚く信奉して、古学を排斥した。松平定信による「寛政異学の禁」は、彼の建議がいれられたものである。また、古賀精里・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」といわれ、林述斎とともに、官学昌平黌の学問を復興させた中心人物の1人であった。頼山陽はかつて栗山を評して「柴公は高にして俊なり」と。その人となりは高邁俊敏で、形而上の問題を追及するより、経世実用の学としての朱子学を極めようとしていた。頼山陽が少年の時に詩文よりも史学を学ぶように勧め、考証や細目に渉らずその大意のみを了解し、それ以外は忘れてもよいと忠告した。彼が古学に反対したのは、荻生徂徠が言語や文辞にその関心を重く置いたところにあると推測される。
栗山は池大雅、韓天寿、高芙蓉などとも交わり、書画法帖の鑑識にも精しく、その文集にも書のためにかいた多くの題跋が残されている。彼が68歳のとき、市河米庵の『米家書訣』のために序文を書いている。それによると、自分では古法帖を観たり、筆をとって書いたりするのは好きであるけれども、実際はあまり手習などをしたことはなく、ただ自分の好きなままに楽しみで書いているにすぎない。それでも人から頼まれると断わりきれないので、月に幾十百枚となく書いているといっている。多少の謙遜の言葉もあろうが、書名は高かったと見えて、このようにたくさんの揮毫をしていたと思われる。それでもまた書家ではないのでいたって気らくな気持で書いていたようである。 漢文作家としても、唐宋八家の古文をよく消化し、荻生徂徠の古文辞派が衰えてのち、格の正しい漢文をはじめて書いた人で、文集に『栗山文集』6巻がある。 著書としては他に『国鑑』『資治概言』『栗山堂詩集』などがある。
[編集] 政治上の意見
勤王家であったともいわれ、その時事問題への識見は『栗山上書』にみられる。そしてその多くの意見はかつて徂徠が『政談余録』などで述べたところと一致する。栗山の見るところ当時の政治の問題は、(1)将軍の側近によい忠告者がいないこと(2)民政が腐敗していること(3)封建制度が動揺しつつあることにあった。
側近たちは裕福で何不自由なく暮らし、自分の地位が安泰であることのみを心がけ、幕臣でも身分の低いものは思っていることも上聞に達する手段がない。役人たちは威厳を飾り少しのことでも手続きを難しくして暇取らせ、下から意見を言うにも命がけでなければ言えないようにさせている。勘定奉行などの高い役職に就くものは、江戸育ちで地方のことはわからず、処置を間違えたり吟味を長引かせたりし、失敗が露見しないよう言い訳がうまくつくようにとばかり考えて仕事をしている。
民政でも特に重要なはずの代官は、権限が狭く限られ俸禄も低いために、農民たちから年貢を苛酷に取り立てて、早く出世するよう励むこととなる。新田開発には山師たちが介入して、塩分が多く荒地になるに決まっている沼を開拓すると称して代官たちに取り入り、幕府に金を出させ農民たちを酷使して無理矢理に干拓事業を興している。新田開発は、帳面にだけ存在する土地とその分増徴される年貢を農民に残し、憂いを重くするだけである。
徳川政府の「見取の法」(検見法)は、年ごとに役人が収穫高を見て年貢の率を決めるやり方であるが、無知で怠け者な百姓たちにしてみると、丹誠こめて多く収穫してもそれだけ多く年貢にとられるのだから、汗水流して働くのは骨折り損だということになる。そこで百姓たちは日増しに無精になり、年々収穫の出来は悪くなるのである。官吏の無能は強盗をはびこらせ、徳川幕府が軍政の要としていた譜代大名の多くは貧窮にあえいである。
このように栗山は、参勤交代や転封の不可を論じ、徳川初期の頃に比べての武士たちの奢侈、賄賂の横行を嘆き、旗本たちの優柔惰弱に憤り、幕政の改革を欲する。 言路を開放し民情が君主まで届くようにし、裁判を公正にし、代官の実権と責任を重くすることを主張する。租税に関しては、「見取りの法」ではなく定免法を勧告する。幕府の威厳を回復するために、譜代大名と旗本の意識を向上させることを望む。この上書は寛政の改革が栗山の献策に負うところが多いことをうかがわせ、かくして栗山は荻生徂徠・室鳩巣以来の政論家として数えられる。