香川親和
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄10年(1567年) | |||
死没 | 天正15年(1587年) | |||
別名 | 五郎次郎(通称)、親孝、親政(別名) | |||
氏族 | 長宗我部氏→香川氏 | |||
父母 | 父:長宗我部元親、養父:香川信景 | |||
兄弟 | 長宗我部信親、香川親和、津野親忠、 長宗我部盛親、長宗我部右近大夫、 長宗我部康豊 |
[編集] 生涯
永禄10年(1567年)、長宗我部元親の次男として生まれる。
天正6年(1578年)、元親は讃岐へ侵攻し、天正9年(1581年)に西讃岐4郡の守護代である香川信景のもとへ和睦の条件として親和を養子として送り込み、香川氏の名跡を継がせた。このとき、香川五郎次郎と名乗る(「五郎次郎」は香川宗家の通字)。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部氏が秀吉に降伏すると、人質として大和郡山に送られ、天正14年(1586年)に帰国する。そして元親から幡多郡山田郷一帯に所領を宛がわれ、岡豊城下の東小野村の屋敷で家臣の中間藤左衛門、山地利庵らと居住する。
天正14年(1586年)、長兄の長宗我部信親が豊後戸次川の戦いで戦死したため、豊臣秀吉は元親に朱印状を出し、親和に家督を継がせるよう計らったが、元親はそれを良しとせず、溺愛する4男の長宗我部盛親に家督を継がせることを決めたため、そのショックがもとで病にかかり、岡豊城下で死去。享年21。
一説に家督相続の可能性が無くなったために断食して命を絶ったとも(秀才で温厚であったとの説もあり、長宗我部宗家を慮って断食したとの説)、父による毒殺説もある。ただし、生来から病弱だったらしく、病死の可能性もある。
その遺体は一族累代の墓所には葬られず、岡豊山麓の小さな墓石の下にひっそりと眠っている。