香田誉士史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
香田 誉士史(こうだ よしふみ、1971年4月11日 - )は、佐賀県佐賀市本庄町出身の駒澤大学附属苫小牧高等学校硬式野球部監督。(選手時代は)右投げ両打ち。血液型O型。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1988年夏、1989年春と夏に佐賀県立佐賀商業高等学校の中堅手として甲子園出場。 1989年夏は本塁打も放つ。駒澤大学を卒業し、1994年夏の甲子園では臨時コーチとして母校の優勝に貢献。
1995年に駒澤大学附属苫小牧高等学校の社会科教員兼野球部顧問として就任。その後監督になり、2001年夏に32年ぶりの甲子園出場(この時と2003年春と夏は初戦敗退)に導くと、2004年には夏の甲子園を初制覇し、北海道に初の優勝旗をもたらした。翌2005年の春のセンバツは2回戦で敗退したが、夏の甲子園では第30回大会(1948年)の小倉高校(旧制小倉中学)以来の、57年ぶり史上6度目の夏大会連覇の快挙を達成した。さらに同年の国民体育大会「晴れの国おかやま国体」、明治神宮野球大会も優勝。
しかし、翌年の2006年3月に3年生部員による喫煙・飲酒による不祥事が発覚し、同年センバツへの出場を辞退。自らも責任を取り監督を辞任した。
2006年5月に監督復帰。同年夏の甲子園では決勝再試合の末惜しくも3連覇を逃し準優勝。同年秋に3年生部員(センバツ前の喫煙・飲酒事件時では2年生)の喫煙による不祥事が発覚し、野球部は再度1週間の活動自粛となり、自らは1週間を謹慎した。
[編集] エピソード
- 監督就任時から駒苫野球部員が行う「人指し指を1本だけ立てての決めポーズ」は、香田監督のアドバイス「ベストを尽くす」によるものだという。愛知工業大学名電高等学校野球部や他校の選手たちも真似をするような馴染みのしぐさとなったが、皮肉にも、駒苫の3連覇を決勝で阻止し、2006年夏の甲子園優勝に輝いた早稲田実業学校高等部の選手たちも、勝利の瞬間、マウンドに集まりこのポーズを取った。また、2006年アジア競技大会野球競技において優勝した台湾チームもこのポーズを取っており、日本だけに留まらない流行を見せている。
- 2005年8月の「第22回AAA世界野球選手権大会アジア選手権」では代表チーム監督を要請されたが、(当時の)野球部長の暴力事件が明らかになり辞退した。また2006年夏に行われた日米親善高校野球ではコーチを要請されたが、体調不良で辞退している。
[編集] 甲子園での成績
- 春:出場2回・1勝2敗
- 夏:出場5回・14勝3敗1分・優勝2回(2004年、2005年)・準優勝1回(2006年)
- 通算:出場7回・15勝5敗1分・優勝2回・準優勝1回
[編集] 関連人物
- 高木浩之(西武ライオンズ内野手。大学野球部の1年後輩で現在も親交が深い)
- 佐々木孝介(ささき こうすけ、2004年度の主将、駒澤大学在学中)
- 本間篤史(2005、06年度の4番打者で2006年選手権大会から主将。香田監督のそっくりさんとして話題になり、ポジションも香田の現役時代と同じ中堅)
- 林裕也(2004年夏の甲子園でサイクルヒット。2005年度の主将で二塁手。駒澤大学在学中)
- 松橋拓也(2005年度の背番号1、明治大学在学中)
- 田中将大(2006年度のエースで2006年夏の道大会まで主将)
- 林幸平(林裕也の弟。内野手・三塁手。2006年秋支部予選主将)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 高校野球指導者 | 駒澤大学硬式野球部の選手 | 佐賀県出身の人物 | 1971年生