馮道
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馮 道(ふう どう, 882年 - 954年)は中国五代十国時代の政治家。字は可道、号は長楽。
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[編集] 宰相になるまで
初めは燕の劉守光に仕えていたが、朱全忠と李存勗の2大勢力の間で漁夫の利を得ようとして危険な軍事・外交政策を続ける主君に諫言して幽閉される。後に李存勗が燕に攻め込むと、馮道は救出されて李存勗が建国した後唐に仕えるようになった。
[編集] 五朝八姓十一君
五代十国時代には皇帝、王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐、後晋、後漢、後周)と後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。「五朝八姓十一君」と呼ばれる。五朝は後唐、後晋、遼、後漢、後周の5つの王朝、八姓は後唐の李存勗、その養子の李嗣源、そのまた養子の李従珂の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子の柴栄の2氏の合計8つの姓、十一君は後唐4代、後晋2代、遼1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝を表す。
[編集] 宰相として
宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝達には農民に対する哀れみの心は少なく、時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。一例を挙げれば、遼の耶律徳光が開封に入った時に漢族虐殺をしそうになったので、これを馮道は「今、仏陀がここに現れても民衆を救う事は出来ず、ただ皇帝である貴方だけが民衆を救う事が出来るのです。」と言った。
[編集] 後世の評価
後世、特に朱子学的見地からは売国奴、変節漢と呼ばれ、司馬光なども「貞女は二夫に従わず、忠臣は二君に仕ず」と痛切に批判している。
しかし一方で馮道は当時の人々には大いに尊敬され、また後世の歴史家の中でも馮道を弁護する者もいる。中でも異端の歴史家といわれる李卓吾は「孟子は『社稷を重しと為し、君主を軽しと為す。』と言っている。馮道はこれを体現し、民衆を安寧にした。」と絶賛している。ただし「これは五代のような時代だから許される事であって、他の時代の変節漢がこれを言い訳としてはいけない。」とも述べている。
また晩年の馮道が長楽老と号し、自らの功績をぬけぬけと誇ったと言うような馮道の自己顕示を嫌う人も多い。しかしそう言った事を鑑みても馮道のおかげで命を救われた民衆は数多く、その功績はある程度評価せずばならないだろう。
[編集] 参考文献
- 『馮道 乱世の宰相』礪波護著(中公文庫, 1988年) ISBN 4122015022