高氏師
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高 氏師(こう の うじもろ、生没年未詳)は戦国・安土桃山時代の人物。古河公方家の譜代家臣であり御連判衆の一人。 官位は大和守。
子孫に喜連川藩士となった高修理守がおり、この同一人物か、その子にあたる、古河の鴻巣館にて足利氏姫と喜連川義親及び孫の喜連川尊信に仕えた高四郎左衛門がおり、寛永7年1630年7月の2代喜連川頼氏が死去し、子の喜連川義親がすでに早死のため孫の喜連川尊信(11歳)と供に古河から喜連川に合流した。
高四郎左衛門は慶安元年(1648年)に浪人となり、高野修理と改名し、同じ古河公方系家臣の梶原平左衛門等と、領内の5人の農民を使い喜連川騒動を幕府に訴え出たが、藩政の主導権争いを目的とした偽装直訴事件であることが幕府の調査により露見し、大嶋へ流され断絶となる。
共犯となる小弓公方系の次席家老二階堂主膳助(15歳で故椎津下総守主殿の子で椎津行憲の子孫)は、若年であるため罪を軽減され白河藩主榊原忠次に預けられる。